服部拓円
ご門徒さんのお宅の法要に参らせていただいた時、ご門徒のお年寄りの方から、「もう年を取ってだめですわ」や「若い方の邪魔になってしまいまして」などと聞かせてもらうことがあります。
私自身はまだおじいさんではないので、同じ立場としてのお話ができないのですが、そういった話をお聞きさせていただく度に、病で亡くした父のことを思い出してよくお話させていただきます。
父が病に倒れてからは、介護としての関わりが日常となりました。その時に「早く元気になって欲しい」「健康であった父に戻って欲しい」という気持ちで介護していました。当然といえば当然の気持ちですし、この気持ちなくして介護はできないのですが、大切なことが抜けていたのです。「良くなれ」「早く良くなれ」という気持ちだけでは「今、病に倒れている父は本来の父の姿ではない」と、現状を受け入れられない自分の感情が強くなるばかりか、介護を通してお互いが疲れ果ててしまいます。私自身も、初めはこの受け入れられない気持ちで非常に疲れていました。
そういった気持ちで介護する中、ふと気づいたのが現状を頑なに「普通」であると認めようとしない私自身の姿でした。病である父の今の姿が「普通」であり、病である父を「普通」として私も受け入れる、この気持ちが抜けていたのです。
「歳を取る」よりも「若い」方が良い。「病に倒れる」よりも「健康」の方が良い。「死ぬ」よりも「生きている」方が良い。このような非常に二元的な考え方では、比較することでしか価値は見いだせないでしょう。そこで基準となるのが「普通」であって、自分自身の持つ「普通」から外れることは「だめなこと」であり「邪魔なもの」と見てしまう、ここに私自身の行き詰まりがあるように思います。
そういった頑なな価値観から一歩下がって、今現在の自分をそのままとして受け入れることが大切なのではないでしょうか。
みなさまもご自身が「普通」としていることを一度考えていただけたらと願っております。