027『ブタがいた教室』

平塚寛

先日、あるテレビ番組で『ブタがいた教室』という映画が紹介されていました。その内容は、1990年に大阪府の小学校で実際に行われた、6年生のクラスでブタを育てて大きくなったらみんなで食べようという、命を考える実践授業についてでした。

子どもたちはブタに「Pちゃん」と名づけて育て始めます。さまざまな困難を乗り越え、Pちゃんとの絆を深めていく中で、Pちゃんを食べてしまうという当初の計画に、大きな抵抗を感じ始めました。そこで、何度も何度も学級会を開き、Pちゃんを食べるのか食べないのかの議論を重ねました。「ペットのPちゃんを食べてしまうのは残酷すぎる!」「みんなPちゃん以外のブタは食べられるじゃないか!」と、クラスの意見は真っ二つに割れてしまい、最後の判断は先生が下すことになりました。その結果、先生は「食べる」という結論を出し、卒業式の後、Pちゃんは食肉センターに運ばれていくという結末を迎えます。

映画は実話をもとに製作されており、この斬新な授業が報道されると、素晴しい教育だという意見も寄せられましたが、あまりにも残酷だという批判も殺到しました。賛否両論ありましたが、私は「食べたか」「食べなかったか」の結果ではなく、命あるPちゃんを「食べるか」「食べないか」「どうして食べられないのか」を真剣に考えることができたことこそ、子どもたちにとって大きな意味があったのだと思います。

昔の人も、私を含む現代人も、皆、何かを食べて命を繋いできました。何かを食べるということは、当然、他の命を奪い、他の命に犠牲になってもらうことで成り立ちます。だから「いただきます」と言います。しかしながら、現代の日本では「いただきます」が言われなくなるとともに、他の命をいただいているという意識も希薄になっているのではないでしょうか。

私自身、食事の時に何を考えているかと振り返ってみますと、まず、美味しいかどうかが一番にきます。そして、値段、栄養バランスなどを考えます。自分の命のために、他の命をいただいているという感謝の心が抜け落ちていました。「無量寿」に頭が下がる世界と言いながら、目の前の命にも頭が下がらない自分に気づかされました。情けないことです。

子どもたちは、Pちゃんを尊い命と感じたからこそ、食べるのに抵抗があったのだと思います。私たちが普段何気なく食べている命もすべて尊い命です。尊い命を食べないことには生きていけない私たちです。みんながブタを飼うことはできませんが、せめて感謝の心をもって、いただいていくことはできるのではないかと思います。