森英雄
「我々の人生は完璧に決まっていて、しかも完璧に自由である」
ある武闘家の格言と聞いております。この言葉について、私の尊敬する岐阜市在住の田中謙次先生から、「これは浄土真宗の教えとよく似ていますね」と約2年前の春に言われました。私は、当時は何のことか全然見当もつかず、黙って「ああそういうモノですか」という程度でした。
『正信偈』に「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶ)」(真宗聖典207頁)とあるように、極重の悪人の自覚と、仏名を称える心が体中から湧き上がることとが同時であると思い知らされてから、先程の言葉の背景がリアルに伝わってきました。
思えば、小さい頃から他人と自分を意識し、比較し、優劣をつけ、少しでも上に行くことが人間の幸せであると思い込んで生きてきました。給料の多さで人生の幸不幸が決まるかのように思い、少しでも多くのモノが増えることが幸せであると思い込んできましたが、そのためか自分の姿に関することや、能力に関することで、受け取り難いことについて、具体的に言うならば、足が短いことや兄より頭のできが悪いこと、太っていること、禿げていることなどを、この世に生を賜ってくださった親に対して、恨みの感情を持つことがたびたびありました。
それは、どうしようもないコンプレックスが我が身にあるということです。だからこそ、仏さまはその心を否定されようとはなされませんでした。そのコンプレックスが作る世界の地獄を私を通して見せてくださっていたのです。
嫌だ、恥ずかしいという思いは、厳密に言えば、他の人を縁として、私が私を嫌う心です。この心を無くそうとして聞法に励んできたようなものです。しかし、その自分を嫌う心(これが自我)が自分(煩悩の固まりの身)を追い込んでいくのです。そのまま実体的に捉えますと、完璧に地獄を造らざるを得ませんが、そのように思っただけという事実が、私を悪人という自覚に自然と誘います。
いろいろ都合の悪いことが起きると、逃げて、言い訳をして、他人の仕業にして、一人被害者意識に閉じこもる。これが自分を嫌う心であり、自我と呼ばれる正体です。そのままが他の人をご縁に思っただけ、という完璧に自由なハタラキに出遇う場でもありました。
どんな思いも実体化すれば囚われる。思ってしまう我が身であると目が覚めれば、嫌いな人が自分の本当の姿(極重の悪人)を思い知らせるご縁の人に早変わりです。対立があるから気づかされる。気づかされるから新鮮な感動を伴って、以前の意識を嫌わず、かえって罪深き身を教えていただく縁となる。そこから無限に展開する新鮮な初めの一歩が毎日誕生するようです。