三浦統
「あの人が悪い」「私は悪くない」。よく耳にする言葉です。他人や自分を「善悪のものさし」ではかり分類しているのです。
『歎異抄』に「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(真宗聖典634頁)と親鸞聖人のお言葉が伝えられているように、条件が与えられるならば、どのような行為をもしてしまうのが私たち人間なのでしょう。
誰もが根っこには似たようなものを持っていると思うのです。その意味では誰しも同じはずなのです。
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(真宗聖典627頁)と『歎異抄』に教えられるように、私たちが救われていく道は、善が助けになったり、悪が妨げになったりすることがありません。ただ念仏して、阿弥陀仏に救っていただくよりほかにない私なのです。
念仏とは「南無阿弥陀仏」ですが、その意味をとれば『正信偈』の最初「帰命無量寿如来」ともいえます。「無量寿」とは「はかりしれないいのち」と書きます。ですから、念仏とは「はかりしれないいのちという真実に帰依しなさい」との阿弥陀仏からの呼びかけなのです。私たちのものさしで「はかることのできないいのち」ですから、そのいのちは分けることはできず一つです。
しかし、私たちはいつも自分勝手なものさしで周りや自分をも分類してしまいます。また、他人によって分類されもします。そして、いつのまにかそのものさしに振り回され、自分自身も苦しい思いをしているのです。
そんな私たちに「はかることを必要としない世界に目覚めなさい」「はかってばかりの世界では、本当に救われることはありません」と、阿弥陀仏は常に呼びかけてくださっているのです。
はかることのできない世界に出遇うことでしか救われていく道のない私であることを、ただ念仏して気づかせていただくのです。