三枝明史
お釈迦さまが教え、親鸞聖人が確かめられ、私たちの先輩方が大切に伝承してきた「浄土」。「お浄土」とはどのような世界だったのでしょうか。単なるあの世、死後の世界だったのでしょうか。生きている私たちには無関係な世界なのでしょうか。「浄土真宗」の門徒を名乗る私たちですが、その肝心要の「浄土」が何であるのか、私たちにとってどのような意味をもっているのか、はっきりしませんよね。情けないことですが、私も現代の言葉で上手に説明する術を持ち合わせておりません。
最近、ある女性の方から聞かせていただいたお話です。
その方のお姉さんは一人暮らしをされていたのですが、数年前に病に倒れ病院での療養生活を余儀なくされているそうです。妹さんたちが世話をされているのですが、お姉さんはとにかく家へ帰りたくて仕方がない。リハビリにも熱が入らず、「こんなところはもう嫌だ。家へ帰りたい」と、ことあるごとに不平不満を訴えておられたそうです。
そこで、とうとう妹さんたちは決意されて、お姉さんの家を車椅子での生活が可能なようにリフォームされたのです。そして、お姉さんを一時帰宅させて、家中を見てもらいました。お姉さんはすごく喜ばれたそうです。
それから、お姉さんは変わられたそうです。「家に帰りたい」と一切口にしなくなったのです。他の患者さんとも打ち解け、リハビリにも積極的になられたそうです。
「あんなに家へ帰りたいと言っていたのに、一体どうしたことでしょうか。不思議なことです。せっかく家も直したのだから、いつ帰ってきてもらってもいいのに…」と、妹さんも苦笑されていました。「きっと安心したのでしょうね」と。
「いつでも帰ることができる家」を得たことの安心感は、これほどまでに人を変えていくのでしょうか。嫌でたまらなかった病院生活すらも積極的に引き受けていけるようになるのですから。
私たちは不満を消したり、不安から逃れたりすることが安心であると考えています。けれども、本当の安心とは、不満を引き受け、不満と向かい合える力のことを言うのでしょうね。そういう力をお姉さんから「いつでも帰ることができる家」が引き出したのでしょう。「いつでも帰れる場所がある。それならば、もう少しここで頑張ってみて、帰って行くのに相応しい身体(人間)に少しでもなってから帰ろう」と。
いろいろな解釈ができるのでしょうが、私はお話を聞かせていただきながら、何となく「浄土」という言葉を思いました。
さて、みなさんは本当の安心の場所をお持ちですか。