023死に甲斐

三枝明史

4月の初旬の頃であったかと思いますが、禅僧(臨済宗の僧侶)で芥川賞作家でもある玄侑宗久さんがテレビに出演されて、今回の東日本大震災や福島原発の事故について語っておられました。(ETV特集「原発災害の地にて~対談 玄侑宗久・吉岡忍」)。玄侑宗久さんが住職を勤めておられるお寺は、福島原発から約45kmしか離れていない福島県三春町にあります。極めて切迫した状況下でのインタビューでした。

玄侑さんはその対談の中で「死に甲斐」という言葉を使われました。おおよそ次のような趣旨のご発言でした。

「人は誰でも生き甲斐というものを持っているであろう。仕事であるとか、趣味であるとか、…。生き甲斐は個人がそれぞれ見いだすものである。それに対して『死に甲斐』ということもあると思う。生き甲斐同様、『死に甲斐』も各人がそれぞれ見つけるものと思われるかもしれないが、そうではない。人の死に『死に甲斐』があるとすれば、その人の死によって残された周りの者がどれだけ変わったか、ということ以外にない。『死に甲斐』とは残された者が個人に対して与えるものなのである」

玄侑さんのこの言葉は、被災され命を落とされた人々のためにも、生き残った我々がしっかりと立ち上がって、責任を持って復興に取り組んでいかなければいけない、という励ましのメッセージでしょうし、今回の震災をめぐってあなたは何が変わりましたか、という実存的な問いかけでもあると思います。

私なりにさらに考えてみますと、「死に甲斐」ということは、今回の震災だけに限られることではなく、私たち生きている全ての人に等しく問われている問題であると思います。なぜなら、私たちは生まれてきた以上、必ず誰かと死に別れなければならないからです。

私たちは身近な人との死別の経験から何を学んでいるのでしょうか。亡き人の声なき願いをどのように聞いているのでしょうか。「死に甲斐」とは、私たちと亡き人との向き合い方に関わる問題であると思います。

亡き人を通して仏法が本当に頷けて、私自身の生き方が問い直される。いただいた課題を生きていく。このような関係から、亡き人を諸仏のお一人としてどこまでも仰いでいく畏敬の念が生まれてくるのです。ここにおいて、亡き人への「死に甲斐」と生きている者の生き甲斐がつながるのです。

今年もお盆のシーズンが巡ってきました。特別な思い出お盆を迎えられる方もいらっしゃることでしょう。例年通りという方もおられるでしょう。習慣に身を任せるだけではなく、先立っていのちを終えていかれた方々と今まさに生きている私たちとの関係を改めて考えてはみませんか。