酒井誠
もう20年ほど前になりますが、私が学生であった頃、万葉集の講座を担当してくださっていたのが上野誠先生という方でした。
今となっては、先生の講義の内容については思い出せませんし、ノートもどこにしまったのか見つけることもできません。しかし、それでも、今でも鮮明に覚えているのはその授業スタイルです。その日に取り上げる歌を先生と学生が何度も何度も声に出して詠むのです。機会があったら実際に奈良へ行って歌を口ずさんで欲しいとおっしゃっていました。上野先生の授業は、歌は声に出して歌われるものという基本を大切にする、いわば「体感する万葉集」であったと思います。
何故、20年も前のことを思い起こすのかといいますと、住職になってから、時々、「声に出される言葉」と「文字として書かれた言葉」の違いを感じるからです。
最近は新聞や雑誌を通して短歌を目にする機会が多いのですが、その中には、思わず口ずさんでみたくなるような、力を感じる歌も多数あります。その一方で、声に出して歌っているのだろうかと疑うくらい歌本来のリズム感や心地良さに乏しいものがあります。声に出すことを考えずに作った歌は、歌としての力も言葉の力も失っているのではないかと思います。
私たち真宗門徒が日頃親しんでいる言葉や歌は、親鸞聖人の『正信偈』や『和讃』です。そして蓮如上人の『御文』でしょう。それらの言葉は、たとえ意味は分からなくても、私たちの先達が長い年月声に出して詠み継ぎ、そこに何か力を感じ取ってきたものです。単に文字で表された言葉ではないのです。親鸞聖人も蓮如上人も自ら声に出しながら文章を練り上げられたに違いないと思うのです。
蓮書聖人は「仏法は、聴聞にきわまる」(真宗聖典889頁)と教えられ、また、先生方は「聞法こそ真宗の生命である」と言われています。
そこには、本当私たちが生きる上で灯となり力となるような言葉との出会いを大切にしてきた真宗門徒の姿勢が感じられます。