平野由紀子
今、夫が手元に置き大切に使っている黒い皮表紙の『真宗聖典』。その聖典の表表紙を開いた部分には、毛筆で「大悲無倦常照我」の一句と、実家の父の名前と年齢(80歳)、日付(平成3年10月17日)、そして私の名前(「由紀子さんへ」)が書かれてあります。今から20年程前、今は亡き父からプレゼントされた聖典です。
私は、120句の「正信偈」の中から「大悲無倦常照我」という一句を選び取り、私に伝えようとしてくれた父の心を、ずっと考えてきました。
言うまでもなく、「正信偈」には一句一句に深い意味があります。そして、真実(まこと)の事と、和らぎと、安心と、慰めで、時には厳しく、時には優しく、私たちを包み込んでくれる「いのちの偈(うた)」だと思うのです。
日々の生活に追われると、私たちは「いのち」が見えなくなります。草木の一本一本にも「いのち」があるのに、私の都合で平気で奪うのです。
「境内の杉苔は大事だけれど、銭苔は邪魔!」とか、金平糖のようなかわいいプリゴナムの花も「増えすぎるから駄目」と。畑の野菜も容赦しません。「大きくなりすぎたキュウリは、まずいから捨てよ」とか、「ピンポン玉のようなじゃが芋は、いらん!いらん!」等々。
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう(真宗聖典207頁)
「由紀子!煩悩でお前の眼はさえぎられ、光を見る事ができないだろうが、仏様はあくことなくお前を照らしていてくださっているのだよ。仏様の眼からご覧になれば、皆尊い。仏様の声に耳を傾けてごらん」という父の心だったのでしょうか。
今日も「正信偈」をおつとめし、「大悲無倦常照我」のところで父を感じ、私に伝えたかった本当の心にまた思いをいたすのです。
父の口癖だった「何でもお与えだよ」の言葉を思い出しつつ…。