014私にとっての金言

荒木弘誓

煩悩にまなこさえられて

摂取の光明みざれども

大悲ものうきことなくて

つねにわが身をてらすなり(「高僧和讃」真宗聖典497~498頁)

この御和讃をいただくとき、いつも私はこのように考えます。

私の心根は、いつも分別や執着や愚痴ばかりで、心安らぐ事がない。ちょっとした事で、「ああでもない、こうでもない」とグズグズと思い煩い、何事も自分の思いに偏り、それを拠り所とし、そこにしがみつかなくては不安で不安で仕方がない。そして、結果が自分の思いの通りでなければ、その原因を自分の外に置こうとする。更にはそんな煩いを解決する手段として、仏教の言葉、真宗の言葉などを都合よく引き合いにし、自分の計らいでしか聞こうともしない。なかなか本当のところに気付かせて頂く事の出来ない自分であるな、と。

目も耳も頭も心も煩悩に惑わされ、今間違いなくいのちが生きているこの身の確かさに立つこともできず、ただ悶々といのちを過ごしている私です。この御和讃は何百年、いやもっと遥か昔からこの私に流れ着いてくれた真実の言葉であるのでしょう。しかし、かたじけなさを思うべきところであっても、私は、何とも身の置き所のない我が身の惨めさしか感じる事ができないのです。

親鸞聖人は、この御和讃を「何とかたじけなき事よ」と歓ばれ、讃嘆し詠(よ)まれたのだと思うのですが、「我が身の惨めさ」としか感じられない私は、「何と頑(かたくな)な者か」と思わない訳にはいきません。

「ものうきことなく、常に誓願の真実の光は、こんなお前にも届いているんだぞ」と呼びかけてくださっている聖人の呼び声を頼りに、様々な出会いを通じて、頷ける我が身に出遇いたいものです。