011ご縁で知る

安田豊

本日、斎場での葬儀を終えてまいりました。自宅での葬儀はここ2、3年でめっきり減り、最近の葬儀はほとんどが斎場で執行されます。そういった流れの中で、ふと思ったことを確認していきたいと思います。

みなさんは祭壇の後ろに「阿弥陀如来像」、または「六字名号(みょうごう)」の御軸がかけられていることをご存知ですか。葬儀社の荘厳(かざり方)によって正面から見にくかったりしてはいますが、真宗の葬儀では必ず御本尊が掛けられています。

葬儀が自宅で執行されていた頃は、葬儀の際に掛けられる通称「迎え仏」と呼ばれている御本尊をどんなに遠方でも、「迎え仏さんを迎えに参りました」とお寺まで来られ、大切に祭壇中心部に掛けられたことです。そのことは、先達から「葬儀には何は無くとも、手次の御本尊」という伝えがあったからだと思っております。

それが斎場の葬儀ですと、縁者が祭壇を組むことなどはありませんから、必然的に関心事は「どのタイプの祭壇にするのか」、「精進落としは何人分か」等の諸事に向いていき、御本尊の有無、必要性など頭から消えているのではないでしょうか。

もう十年以上前になりますが、孫さんが祖母の葬儀で掛けられていた御軸を送ってこられたことがありました。「父からとても大切なものだから肌身離さず持って行くようにと言われました」と、言って風呂敷に包まれた桐箱を首から下げて玄関に立っておられました。聞けば、道中、何かあってはいけないと車の運転もその状態でしてこられたそうです。さぞかし運転しづらかったことでしょう。

そのことは父親から教えられた御本尊の大切さをまさしく身を持って知ったことになるのではないでしょうか。そういった「身を持って知る」ご縁が、今はないと言えます。世代によっては「迎え仏」の存在すら知らないでしょう。

どうぞ有縁の方の死を通して、そして葬儀という儀式を通して、もっとも大切な場所には必ず御本尊が掛けられていることを認識していただきたいのです。

知識として「真宗の御本尊は阿弥陀如来」ということは既に知っておられる方も多くいらっしゃるでしょう。しかし、ご縁を通して「阿弥陀如来は本当に尊い」ということを身を持って気付いていただきたいです。