010桜の季節を迎えて

山田恵文

4月は入学の季節です。私が勤める大学においても、たくさんの新入生を桜の花が咲きほこる中、迎えることになりました。おそらく新入生の方々は、これから始まる未知の世界を前にして、多少の不安を抱えながらも、期待で胸が一杯であるかと思います。そのことは迎える側である私自身も同じです。これから始まる新たな出遇いを前にして、晴れやかな気持ちで新年度を迎えています。

しかし、今年は例年と少し趣が異なるようです。それは先月に起きた東北地方の大震災の影響です。地震とそれに伴う津波と災害によって、多くの方が犠牲となり、今もなおたくさんの方が、深い悲しみと不安の中で生きることを余儀なくされています。連日報道される被災地の状況と人々の姿を見ていると、あまりの無惨さにかける言葉も見つからないというのが正直な思いです。

さて、親鸞聖人は9歳を迎えた春の季節に、京都東山の青蓮院において出家をされました。その時のエピソードとして次のような話が伝えられています。青蓮院では天台宗の高僧である慈円の世話の下、出家をします。しかし、もう日暮れでありましたので、慈円は出家の儀式は明日にしましょうと提案します。それに対して、親鸞聖人は和歌を詠んで自分の思いを述べられたというのです。

明日ありとおもうこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

たいへん有名な歌でありますから、ご存知の方も多いと思います。「明日があると思っていたら、その思いがあだになってしまう、夜中に嵐がやってきて桜の花を吹き散らしてしまうかもしれないから」このような歌を詠みまして、親鸞聖人は明日ではなく、今すぐ出家したいと自分の思いを述べられたのです。

親鸞聖人のこのような強い決意と覚悟を知って、すぐに出家の儀式が行われたと伝えられています。これはあくまで伝説ではありますけれども、親鸞聖人に思いを寄せる人々は、この歌を通して、人生の意義を問う歩みを出発された親鸞聖人の尊い姿を仰いできたのです。

今回の震災において、私たちは当たり前のように生きているこの生活が、一瞬にして消え去ることさえある「無常」の世界を生きているのだという確かな事実を突きつけられました。その中で、自分が生きるということはどういうことであるのか、今、現実から問われていると思います。この季節、親鸞聖人の出家の姿に思いを致すことによって、人生の意義を問う歩みを一日一日進めていきたいという思いを改めてもったことです。