鈴木晃
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫(じっこう)をへたまえり
法身の光輪きわもなく
世の冥盲(もうみょう)をてらすなり(真宗聖典479頁)
先日、近所の若嫁さんが、誕生60日目のお子さんを連れて挨拶にみえました。女の子で丸い目を大きく開いて、見えているのか、いないのか、私の方を向き、物言いたげでした。そんな親子に対して、「親も子も共々、念仏の方を見て進みましょう」と思いましたが、私は戸惑いを感じました。
私の家にも4人の孫がおり、月に一度の御講に近所の門徒と共に本堂に参詣し、「正信念仏偈」を唱和する生活をしています。近所の子どもに何と誘ったものか、まず子の親を見て私にかけられた問いを思うと、「盲冥」という自覚の薄い私に、隣人と手をとって仏前に進むことができるのかと感じるのです。
また、住職にかけられた問いと、私の思いに、仏は何と願ってくだされるのか。十刧をかけた仏の働きが輝いてくださるのだ。そう感ずる私に、寺の掲示板の法語が問いかけてきます。
「子どものいのちを育てるのか、子どもの上にかけた親の夢を育てるのか」
とあります。
3月ともなれば境内に次々と草が芽を出します。毎日少しずつでもよいから草の芽を摘み、寺の子も近所の子もお念仏に遇い居ることの出来る御同朋の姿を感じたいものです。
「目の前の何ものかも見えない」人生を、はかり知ることのない智慧で、照らしてくださる如来の救いを、信じようとしない私でありました。
誕生児初参りを縁として、共に座する場所を見つけようではありませんか。