大橋宏雄
東北地方・太平洋沖地震により被災されたみなさまに謹んでお見舞い申し上げます。
日頃聞法する中で、私たちは「明日にも死ぬ身を生きている」ということを教えられていながら、なかなかそのことが自分のこととして受け止められないということがあります。しかし、今、地震や津波に始まり、今も続いている様々な災害によって、そのことが実感として突きつけられているように感じます。ところが、その実感は自分の死というよりも、むしろ身近な人の死というところにあるように思います。
関係を生きている私たちにとっては、たとえ自分が助かっても、身近な人の安否が分からなければ助からない思いがあるのではないでしょうか。また受け止めがたい「死」に対して「命が奪われた」と表現される時、そこには私たちの無力さが思い知らされます。
しかし、同時に命はただ奪われていくだけのものなのかということも思うのです。人が死んでいくということは、ただ失っていくだけのことなのでしょうか。私はそれだけではない、それだけでは言い尽くせないことが、命ということにはあると教えられてきたように思うのです。
亡くなられた宮城顗(しずか)先生は「死ということは生の否定じゃなくて、死もまた命の営みなんですね。死というのは命が無くなることじゃないんです。命が無くなることを言っているのではなくて、生死共に命の営みです」とおっしゃっておられます。
それは一人一人の人生ということだけではなく、その一人一人を包んであるような命の営み、命の営みとなるような命なのでしょう。それは決して奪われることのない命であり、またその営みによって「生きること」が私たちに与えられていく、そういうことが言えるのではないでしょうか。
そして、そのことが感じられ確かめられるところに、まるで全てを砕くような現実の中にあって「生きること」を見失わせないものがあるのではないかと思います。