木名瀬勝
夫を自死で亡くされた女性がひっそりと隠れるように暮らしている。なぜ死んだのか、なぜ私を残して、なぜ相談してくれなかったのか、なぜ、なぜ、と思いながら。
そこに、周りの人たちの良識ある意見が追い討ちをかける。「辛いわね、早く立ち直ってね」という励まし。「なぜ止められなかったのか」という疑惑。「彼は命を粗末にした」という非難。残された遺族は、助けることができなかったという自責の念に押しつぶされる。
現代のような生きていくことさえ難しい社会になっても、自己責任という呪文によって問題は個人に閉じ込められてしまう。「ゆるし」とはどういうことか、と彼女に詰問されているように感じたのでした。
親鸞聖人が六角堂において観音菩薩より『行者宿報偈(ぎょうじゃしゅくほうげ)』といわれる偈文(げもん)を賜ったのは、あるがままに受け止められたという体験ではないでしょうか。聖人が苛まれていた罪の意識を丸ごと受け止められた時、自分に与えられた生き方を引き受けることができたということです。それによって罪を償う歩みが始まるのではないでしょうか。
自責の念とは、それまで当たり前に生きてきた世界が、差別と偏見と殺意に満ちていることに気づいたことでもあるのです。しかし、それだけでは諦めです。「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり。私が食べてきた生き物たちが、なぜ俺たちを殺すのかと怨むのであれば、私たちが住む場所はありません」とある先生がおっしゃるように、差別と殺意に満ちている社会を支えてきた私さえも許している大地を見出した時、この世界を善くしていこうという意欲が与えられるのです。これは、償う世界の発見です。