内山智廣
それは半年ほど前、私が本山の同朋会館へ嘱託補導として上山した時のことです。お夕事の後、感話の時間になり、ある補導の名前が呼ばれました。通常は上山して来られた奉仕団のご門徒がお話をされることが多いのですが、その日は補導の名前が呼ばれました。何ごとかと思い様子を見ていると、その補導はスタスタと前へ出て「私は謝らなければなりません」と話し始めました。彼は自分が担当する奉仕団の方に感話をしてもらうよう、予めお願いしなければならなかったのですが、そのことを忘れてしまっていたというのです。続けて彼は「このご本山で感話をしていただくという大切な仏縁を、自分がうっかりしておったがために奪ってしまいした。本当に申し訳ありませんでした」と言いました。
その言葉を聞いた瞬間、本当に自分でも訳が分からなかったのですが、不意に目頭が熱くなり涙がこぼれそうになりました。慌てて一生懸命涙を堪えながら、同時になぜ自分が泣きそうになっているのか考えるのに精一杯で、後の方のお話は全く聞きことができませんでした。
少ししてようやく落ち着いてから考えてみたのですが、私も彼と同じ様に、担当した奉仕団の方に感話をお願いするのを忘れていたことがありました。その時、私はどうしたかというと、お夕事が始まってから強引にお願いして話してもらい、事無きを得たのでした。しかし、そこにあったのは「失敗したくない」「よく思われたい」という自己保身の思いだけで、相手のことは考えていなかったように思います。仮にもし感話を引き受けてもらえなかったら、ごまかすか、誰かのせいにしていたことでしょう。
親鸞聖人が書かれた『教行信証』に「無慙愧(むざんき)は名づけて人とせず」(真宗聖典257~258頁)というお言葉があります。「自分が犯した罪や過ちに痛みを感じることがなければ、人と呼ぶことはできない」ということですが、彼の「仏縁を奪ってしまった」という言葉を通して、我が身かわいさに人を傷つけるような傲慢さ、身勝手さを、恥ずかしいと知らせていただいたことでありました。