日野泰通
先日、学生時代の先輩と会う機会がありました。その先輩とは毎年年賀状のやり取りはしていましたが、話をするのは結婚式以来、4年ぶりということもあってか、学生時代の思い出話や近況報告で盛り上がりました。
そんな中、話は先輩の子どものことになりました。名前は「知果帆(ちかほ)ちゃん」といいます。由来を聞いてみると、「知」は「知る」という字で、新婚旅行で行った知床半島から一字を採り、知床半島みたいに大らかに育って欲しいという願いを。「果」は「果実」の果という字で、実り多く健やかに育って欲しいという願いを。そして「帆」は、船のマストを意味する「帆」という字で、大海原を進む船のように堂々と強い子に育って欲しいという願いを込めて名付けられたのだそうです。その話を聞いて、子どもを思う先輩の熱い気持ちが伝わってきて、胸を打たれました。
親鸞聖人は生涯で名前をとても大事にされていました。聖人は「綽空」「善信」「親鸞」と何度か名前を変えられています。それらの名前が使われていた時代については諸説ありますが、いずれにせよ、付けられた名前にはそれぞれ願いがあったように思います。法然上人がお付けになられたのなら、法然上人の親鸞聖人への願いがあり、聖人がご自身で付けられたのなら、自分がこれからどう歩みたいのか、何を大事に歩んでいきたいのかという願いが込められているのではないでしょうか。
名前にはたくさんの願いが込められています。しかし、普段の生活の中で自分に掛けられている願いを意識することがあるでしょうか。恐らく、ほとんどの人が掛けられている願いを意識せずに、また願いと共に歩んでいることを忘れているのではないでしょうか。
私は毎朝、教務所のお朝事で、御本尊に手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えていますが、私たちに掛けられている願いを思い出させ、気づかせてくれるものが「お念仏」ではないかと思います。
「お念仏を称える」ということは、「仏の願いを聞く」ということです。即ち仏の願いを聞くことで、私たちに掛けられている願い、自分の歩みが問い返され、確かめられていくのではないでしょうか。