岡田寛樹
古典落語の中に『千両蜜柑』という噺(はなし)があります。
心の病を患った若旦那は、食事も取らず床に伏せてばかり。大旦那は普段から仲の良い番頭に頼み、若旦那の悩みを聞き出します。聞いてみると蜜柑が食べたいとのこと。番頭は蜜柑を買ってくると約束したものの、季節は真夏。番頭は必死の思いで蜜柑を探し出し、一つ見つけたものの、問屋では「この蜜柑、一つ千両」と言われ、そのことを大旦那に伝えると「息子の命が助かるなら…」と千両出して一つの蜜柑を受け取り、若旦那に差し出します。蜜柑を手にした若旦那は大事そうに食べるのですが、その傍らで番頭はこの親子の様子に呆れかえってしまいます。そして、蜜柑を食べている若旦那を見ながら「あの蜜柑の皮だって五両はするんだ。そして、一袋は百両だ」と番頭は思い始めます。若旦那は三袋残し「これを両親とお前に」と番頭に渡します。渡された番頭は「一袋百両…、いま手元には三百両。どんなに奉公したってこんなお金は手に入らない。旦那さまには申し訳ないが…」と蜜柑を手に店から姿を消してしまうという噺であります。
恐らく、この番頭の行動は番頭自身、真剣に考えた末の行動なのでしょう。しかし、その話を聞いている客、また演じている噺家はことの愚かさに気づいているのであります。
本来の価値を見失い、勝手に価値を付けてしまうが故の出来事は、バブル経済と言われた時代の地価、土地の値段にも表れています。ついこの前までは「この土地五千万円」だったのが、いつの間にか五百万円となっており、あの時に付いた価値は何だったのだろうということもありました。今でもこうしたことは繰り返し続いていており、本来そこにはない価値を付け加えてしまうことで、有り難がってみたり、誇らしげに思ったり、喜んでいる姿があります。それはモノや数字のことだけでなく、地位や名誉、肩書でも同じことが言えるのかもしれません。
「浄土和讃」の中に「無明の闇(あん)を破するゆえ 智慧光仏となづけたり」(真宗聖典479頁)と出てきます。
阿弥陀さまのからの光は、迷いや苦しみを破ってくださり、智慧を授けていただき、本当のことを分からせてもらうみ光となって私に届くのです。本来ないはずの価値に振り回されるのではなく、そこに色々な価値を付け加えるのでもなく、目の前にあるそのものをそのまま見る、真を見る目であれ、と智慧の光に照らされて、初めて気づかされることが分かるのです。