002理解する≠実感できる

岡田寛樹

2008年にノーベル物理学賞を受賞された京都産業大学の益川敏英教授は、あるテレビ番組の中で「物理の実験において証明されたことは、事実として受け止めなければならない。つまり、現実で起きている事柄は事実である以上、好き嫌いではなくて信じなければならない。たとえ、嫌いであっても認めなければならない。納得しなければならない」と話されていました。このことは私たちが普段目にする光景でも、同じようなことが起きているのではと思います。

ついこの前まで元気だった人が病に臥していく、亡くなっていく、若くて元気だった人なのに、随分と老けてしまわれた。そのような人たちをたくさん見てきているはずの「わたし」なのに、どこか「他人事」として見ている自分がいます。人が老けていくのを、亡くなっていくのを見て「そのうち、いつかは、自分も」と思ってしまう自分がいます。たとえ、突然に亡くなられた方の存在を知っていても「自分はまだ大丈夫」とか「まだ関係ない」と思ってしまいます。「自分も」という言葉の前に「そのうち、いつかは」という言葉が付き、先送りにしている自分がいます。

たくさんの人が「わたし」の前で、生きていくことや老いていくこと、そして、命を終えておくことを、予め「わたし」に見せてくれています。けれども「まだ他人事」として見過ごしてばかりもいられない自分に「わたし」は本当に気づいているのでしょうか。知ってはいるものの、理解はしているものの、どれだけ「わたし」のこととして実感しているのでしょうか。

「他人事」として捉えずに「わたしのこと」として捉えないといけない。これは自分の心に留める現実なのだと思います。確かにそういったことを思い始めると、この世を去る時の未練や恐怖感が出てきます。でも、それらのことを受け入れることができるようになった時、未練や恐怖感は無くなり、生きていることの素晴らしさを心の底から実感できるのかもしれません。