木嶋孝慈
あらたまの としの初めは祝うとも
南無阿弥陀仏のこころ 忘るな
初春を寿ぎ、お慶びを申し上げますとともに、今年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
みなさま方には、新しい年を迎えられて、今年一年良い年になりますように…と、それぞれに、今年一年の希望と申しますか、「志」を新たにされたことと思います。
例年のことではございますが、今年も年賀状が配達されています。そこには、「本年も良い年でありますように」とか、「ご多幸をお祈りいたします」という言葉がよく書かれています。私たちは、「何をもって良し」としているのでしょうか。「多くの幸せ」というのはいったい何なのでしょうか。
毎年、年末に恒例になっております、清水寺の管長が書かれる、一年間の世相を表す漢字は、猛暑の「暑」でございました。記録的な猛暑の連続や、気温の上昇による野菜価格の高騰、人里に出没する熊の問題など、地球温暖化が深刻な影響を及ぼし始めているのではと感じる一年でした。
さらには、尖閣諸島問題や北朝鮮による韓国への砲撃など、日本を取り巻く環境が緊迫化し、私たちの生活が今後どのようになっていくのか、不安な世の中になりました。
確かに、お金があって「経済的に豊かな暮らし」を送ることは、人生の目標でしょう。しかし、お金があっても、必ずしも私たちの「心」が満たされるということはございません。
次から次へと「飽くなき欲求」が止めどもなく沸いて溢れてきます。お金の次は「健康」です。みなさん方はどうでしょう。「家族が健康であれば、それでいい」といったこともよく耳にします。しかし、私たちは病気や「死」といったことから逃れることができますでしょうか。
病気や怪我をして「入院生活」を余儀なくされたりしますと、本当に「健康のありがたさ」を身にしみて感じ取ることができると思います。
私たちは、普段から「当たり前」のこととして意識することもない対象を失ってみて、初めて「本当のこと」が見えてくるのかもしれません。
私たちは、日々の生活の中で、幸せになりたいと思って、あらゆる知識を動員して幸せを獲得しようとしています。しかしながら、我々の知識は、いずれは行き詰ってしまう。現代の文明社会の歪みを見れば十分理解ができると思います。そういう時にこそ、仏さまの智慧の眼ということが改めて問い直され、気づかされていかなければならないと思います。このことは、素直に敬う、素直に感謝するというところからでないと、感じ取れないのではないでしょうか。
そういった世界に出会って、初めて本当の意味での「新しいスタート」が切れると思うことでございます。いよいよ、宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌をお迎えいたします。共々に、宗祖にお遇いできることを楽しみにしています。