034ヌチドゥ タカラ

天春克子

私は今年10月下旬に、夫の同年の8家族と一緒に、初めて沖縄に行ってきました。この8家族の親睦旅行は、毎年出かけており、もう30年余りも続いております。

最初の頃は若き時代で、子どもたちの海水浴が中心でした。最近では夫婦だけの参加となり、定番の温泉や観光地巡り、お土産物探しが中心となってきました。今回は久しぶりの二泊三日で沖縄本島を回りました。

旅行最後の三日目は、昼食をはさんで「ひめゆりの塔」を訪れました。バスに戻った時、ガイドさんが『ひめゆりの塔の資料館にも行っていただきましたか」と尋ねられましたが、みんな黙っていました。沖縄で生まれ沖縄で育ったガイドさんの声が、急に寂しくなったように感じられました。

ひめゆりの塔は第二次世界大戦の沖縄戦で、日本軍の従軍看護婦として動員され、アメリカ軍の攻撃で命を奪われた「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔です。ここでは227名が犠牲になられたと、ガイドさんに話していただきました。そして、沖縄の言葉を一つ教えていただきました。「ヌチドゥ タカラ」それは「いのちこそ たから」という意味だそうです。

三日間バスで回っていますと、いろいろなところに戦争の傷跡が残り、アメリカ軍の基地が今も活動を続けています。沖縄の日常生活は、戦争や悲劇につながる危機にいつも直面しているのです。

戦争は、日本では過ぎ去ったことと思っていましたが、そうではありませんでした。今からは、私たちを取り巻く現実に注意深く目を開き、過去の歴史が語る声に、しっかりと向かい合っていかなければならないと思っております。

033「報恩」という生き方

池田徹

以前お聞きした話である。列車の中で、退屈し始めた兄弟が、車内の端(はし)から端まで走る競争を始めた。何回か続いたので、そこにおられたある先生が、その子のたちの母親を睨(にら)みつけた。すると母親は子どもたちに向かって「あなたたち止めなさい」と注意した。それはその通りである。しかし、次に出た言葉が「あの恐いおじさんが睨んでいるから止めておきなさい」だったそうだ。恐いおじさんが睨んでいなければ走り回っても良い、ということではない。誰かが見ている、見ていないに拘(かか)わらず、おかしいことはおかしいと言うことが大切ではないか、事実をきちんと押さえて、注意しなければならないと思う。

今の場合、子どもたちは恐いおじさんに叱(しか)られるのが嫌だから、走り回るのを止めたとすると、自らの内なる意志で考えたのではない。不都合なことに出合わないために止めただけである。逆に考えると、叱られなければ、誰も見ていなければ何をしてもいいということになる。

こういう行動パターンが他にも、我々の生活を支配しているように思う。親が子どもに「勉強しなさい」と言う。それは大切なことである。しかし「なぜ学ぶのか」をきちんと伝えないところで「勉強しなさい、勉強しないといい学校にいけないよ」とか「いい会社に入れないよ」と脅(おど)していることがある。

自らの内発的意思で行動するのではなく「こうなったら嫌だから」「あんな風にはなりたくないから、仕方なく」また「良い人と思われたいから」とか「居場所を失いたくないから」等、不都合や嫌な状況にならないようにと、そういう心が基準となって生活が行われているのではないか。それを「手段化」された生活と言う。していることが、したいこと―目的ではないからだ。

日常生活でイライラが募る、なんとなく満たされない、不安に襲われる、人生そのものに手応えがない等、感じることがある。それは生活が「手段化」され、自己も他者も「道具化」され「利用」されているからである。そういう我々の在り方を「空過」―空しく過ぎると言われている。「今・ここ・共に」ということが欠落した生活である。

「報恩講」という仏事は、新たに親鸞聖人に出会い直すことではないかと思う。親鸞聖人の絵像の讃文に「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし、能(よ)く速(すみ)やかに功徳(くどく)の大宝海を満足せしむ」と書かれている。言葉にまでなった親鸞である。「本願力に遇うことにおいて、空しく過ぐる者はないのだ」と言い切った親鸞である。

「手段化」する私の在り方を「空しく過ぐる」と言い当て、その虚偽性、悲惨さ、無責任さを知らせる本願の呼びかけ―存在にかけられている願い、いのちの叫びを聞きとっていくこと、「教え」に向き合うことそれが親鸞聖人の「報恩講」をお勤めすることではないか。「今・ここ・共に」を回復する生活である。

改めて「365日、毎日が報恩講」である。

032報恩講

芳岡恵基

今年もまた、報恩講をお迎えする時期が近づいてまいりました。私の寺でも、今月15日の晨朝から始まり、22日の女人講報恩講まで厳修させていただきます。例年、たくさんのご門徒衆と共にお迎えできることは、住職として大変うれしいことではありますが、私自身、ただ法要次第をこなしているだけになっている現状であります。

私がまだ学生の頃、ある先生から「報恩講というのは、親鸞聖人のご恩に報いる大切な法要である」と聞かせていただいたことがあります。それを聞いた時、ご恩に報いるというのは、恩返しをするということであると勘違いしておりました。一般的に、誰かに親切にされたら感謝し、何かを貰ったらお返しをします。恩を受けたら恩返しをすることが、世の中の常識になっているのではないでしょうか。

仏教でいう恩は、返すとか返さないとかいう恩ではありません。恩というのは、古いインドの言葉でクリタといいます。クリタというのは「なされたこと」という意味です。

また、報恩というのは、クリタ・ジュニャーといい「なされたことを知ること」という意味です。「なされたこと」というのは「他の誰のためでもない、この私のためだと知ること」それが、仏教でいう恩に報いるということなのであります。つまり、「恩を知る」ということです。ですから、親鸞聖人のご恩に報いるというのは「親鸞聖人によってなされたことが、他でもないこの私のためだったと知ること」なのであります。親鸞聖人に、何かをお返しするということではないのです。

では「親鸞聖人によってなされたこと」というのは、一体何なのでしょうか。それは「私たち凡夫が救われる道は、お念仏しかない」と教えてくださったことであります。私自身、凡夫の身であったことに気づかされた時、初めてお念仏の教えがこの愚かな私のためにあったと、思い知らされてくれるのではないでしょうか。つまり、事実を事実と知らせてもらった時に、初めてお念仏をいただく身となるのであります。お念仏をいただく身となり、凡夫の自覚に生きることこそ、親鸞聖人のご恩に報いることになるのではないでしょうか。

このような心で、報恩講をお迎えしたいものであります。

031「報恩講」について

員辨暁

今年もまた、報恩講の時期がやってまいりました。

この「今年もまた」という言葉の中には、「またか」という私の心の中にある報恩講に対する消極的な意味合いも含まれているのかも分かりません。

ある先生がこんな話をされました。

お茶の道、茶道には茶会の心得として「一期一会」という言葉があります。これは一生に一度限りの出遇いであることを意味します。これに対して仏道では「一期一会」ではなく「一会一期」なのだそうです。たった一度の出遇いが一生の出遇いになる。あなたがどんな人生を送ろうとも決して離れることのない出遇い、これが仏道であるということです。

親鸞聖人は法然上人との出遇いによってお念仏の教えに出遇われました。そのお念仏の教えは親鸞聖人に、生きることの意義・喜び、また生きることへの意欲を与えました。

現代の私たちは、今、生きることの意義・喜びが分からず、生きる意欲を失っているようです。

今年もまた、報恩講の時期がやってまいりました。

先人たちは私たちに報恩講という仏事を通じて、大事なご縁を伝え残してくださいました。「また今年もか」という横着な私の心に「おまえは本当にそれで満足しているのか?」と、親鸞聖人から問われているようです。

030これでいいのだ

片岡健

天才バカボンなどで有名な漫画家の赤塚不二夫さんが去る8月2日に亡くなられました。赤塚さんの葬儀ではタレントのタモリさんが弔辞を読み、テレビでノーカット放送されました。その弔辞を少しだけ引用させていただきます。

あなたはすべての人を快く受け入れました。そのために騙されたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち「これでいいのだ」と。

以上が弔辞からの引用です。「これでいいのだ」は天才バカボンのパパの台詞ですが、私たちはなかなか「これでいいのだ」と、物事を受け入れていくことはできませんね。何か不都合が起こると、私たちは後悔したり他人を恨んだりします。「あいつが悪い」「あいつさえ居なかったら」などと恨みと憎しみがいっぱい出てきます。そして自分自身を「重苦しい陰の世界」に閉じ込めてしまっています。

どんな状況になろうとも「これでいいのだ」と受け入れる。もっと言えば「これでいいのだ。南無阿弥陀仏」と受け入れる。これはお念仏の世界に生きるということではないかと聞かせていただいたことでした。

029祖母の死

海雄二

今年の夏に祖母が亡くなった。

医師の診断によると老衰であり、水を飲まず食事をとることもなく、2週間ほど意識はなく、ただ、心臓のみが動いている。個人の意思とは関係なく、もう十分ではないかと思っても、止まることはない命。

その傍らで看取る私は、子どもと一緒に、祖母が息をしているのか不安に見守る中でも「腹が減った。何かないの」と自分中心で自分自身の力で生きていると錯覚していることにさえ気づかず、ただ毎日を送っている。そんな中での祖母の死。子どもたちは、最後まで祖母のそばにいて、人の死に出会った。

しかし、火葬場で火葬された祖母を見て息子は「おばあちゃんは、恐竜の化石と一緒だね」と無邪気に皆の悲しみを吹き飛ばし、娘は娘でどの部分がどんな骨なのか興味津々で観察していた。

その後二人には、あの瞬間について特に何も聞いてはいない。けれど、きっと何か感じていただろう。あの時、共にいた私自身は祖母の姿を見て恐れていた。自らが老い、そして死ぬ不安から目をそらしてしまいたかった。

しかし、逃げることはできない。逃げられない。それは、生まれ、老い、病み、死ぬことが私自身であるのだから。そのことを、自分自身の事実として受け入れていかなければならない。

このような日々の生活の不安や病老死への恐れに惑わされる生活から、事実を事実として見つめ生活していくには、何が必要なのだろうか。

蓮如上人はこのような言葉を残されている。

仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事はいそげいそげ(真宗聖典874頁)

この言葉は、祖母の死を通して自らを省みた時に、日ごろの忙しさに紛れる中でお念仏を忘れ、惑いの中にいる自分自身の在り方を問い、聞法していく生活が、あなたにとって大切な出発点であるのだと私に呼びかけている。

028「聞く」ということの大切さ

石川加代子

「ねぇ、ねぇ、ねぇ…」

彼岸花が燃えるように咲く坂道で、少し耳の遠くなった祖母に駆け寄りながら、何度も何度も呼びかけた幼い記憶がよみがえります。やっと振り返った祖母は、満面の笑顔で私の目の高さまで顔を近づけて「耳が遠くなったけんね。しっかり向かわな聞こえんよ…」
あれから数十年。夫からも子どもからも、家族全員の「ねぇ」に追いかけられる毎日です。でも、忙しさという大義名分を振りかざし、聞く前から耳をふさいでいるような有様です。

あの時、本当に聞こえ辛くなっていた祖母と、実際は聞こえているのに聞こえないふりの私。中途半端で聞いているから聞こえなかったり、自分の思いでしか聞かないから、ひどい誤解が生じたり、話の腰を折るようなことを平気でしたり、つまり、いつも自分の都合でしか聞いていない私です。

「しっかり向かわな、聞こえんよ」

毎年、田の畔に群生する彼岸花を見るたびに、その圧倒的な存在感を示す紅色とともに、祖母の言葉が呼び起こされます。いつも言い訳ばかりしている私に、生活の中で「聞く」ということを通し、自分のありようを、改めて問い返されたようでした。

真宗では「聴聞(ちょうもん)」の「聴」と「聞」の意味について述べる時、特に「聞」は「聞こえる」という時に用います。「おのずと聞こえてくる」という意味から「聞即信(聞こえた時が信ぜられた時)」と言われるほど重要な意味合いをもつそうです。

「思いを越えてそこに私があるという事実」その大切な呼び声にさえも、すっかり耳をふさいでいたようです。今一度、そのことに真摯に向かい合い、彼方からの声に耳を傾けてみたいと思いました。

027桑名別院

荒木智哉

私が桑名別院の法務員になって3ヶ月が経ちます。勤務をしていると参拝に来られる方々の前で、桑名別院の歴史についてお話をさせていただく機会があります。歴史に触れる中で、別院がこの地域に生活する人々にとっていかに重要な場所であったかということを改めて考えさせられます。

まだ織田信長と一向一揆勢が激しい対立をしていた頃、別院は「今寺」と呼ばれていました。伊勢・尾張・美濃の三カ国の要(かなめ)の地である長島には「願証寺」という、この地域における儀式・教学の中心地とされる寺がありました。しかし、その願証寺が信長によって滅ぼされると、その役目は桑名別院に引き継がれました。

真宗高田派に伝わる『親鸞聖人正明伝』には、親鸞聖人が桑名の地を訪れたという話があります。桑名で一泊された時、地元の漁師が「殺生に携わる仕事を商いとしている私たちはこのような罪の身で助かるのでしょうか」と尋ねます。すると聖人は「弥陀の本願を信じて、お念仏を申せば善人悪人を問わず、あらゆる人々は救われます」と答えられたという話です。もしかしたらこの漁師は親鸞聖人の初めてのお弟子であったかもしれません。

その後も桑名別院は重要な役割を果たしていくのですが、昭和20年7月17日未明のB29の空襲によって市内の八割が焼け野原となり、別院は本堂も含めて跡形もなく燃えてしまいます。しかし、驚くべきことに戦後間もなく、まだ自分たちの家さえも建たず、日々の生活もままならない中で、桑名別院は5年後に再建されます。そこに込められた門徒の方々の願いとはいったいどのようなものだったのでしょうか。

私はこう思うのです。みなで勤行し、親鸞聖人の教えを聞くことを通して、日々の生活における悩みや不安など、それぞれが抱えている問題を皆に聞いてもらいたい、それに対して話し合いたいという思いが湧きあがり、その中心として別院という場が必要となってきたのではないかと。

私にとって別院はどのような場であるのか、そこに関わる者としての問いをいただいた気がします。

026「生」の公開と「死」の隠蔽

米澤典之

妻の出産に立ち会いました。

夫が分娩室に立ち会うことが一般的でなかった時代からすれば、限定的ではありますが、その現場が公開されるようになったといえなくもないのでしょう。そのような意味で誕生の現場が公開されてきたのに対して、臨終の現場はどうでしょう。

現代は「死を隠蔽(いんぺい)する社会」だという表現があります。かつて、畳の上で家族に看取られながら迎えた最期の時は、いまひっそりと病院の個室で迎えるのが一般的です。さらには通夜も葬儀もしない直葬や家族葬が流行し、友人や知人、果ては親族の死の事実を年末の「喪中葉書」によって初めて知るような現実です。「死の現場」がますます隠されている現実です。

出産の現場に立ち会うことで、「生」と「死」の現場のギャップが引っかかってきたのです。家族の臨終を看取るということは、見ておかずにはいられない、知らずには生きていかれない大切な姿として、その厳粛な場に立ち会わされるということです。その現場から離れるわけにはいかないような間柄を、関係をいただいているのです。

また家族を看取ることは想像できても、看取られる側となればどうでしょう。その姿を見せたくない、見られたくないという思いもあるかもしれませんし、現実的には子や孫がそろって臨終に立ち会えるような状況を整えることは困難なのかもしれません。たとえそうだとしても、せめてその遺体に触れる場が欲しいのです。その現場に立ち会うことでしか、その触れた感覚でしか伝わらないことがあるのです。

「死人」を遠ざけてはいけない、同時に「老人」や「病人」を遠ざけてはいけない。それを私自身が実践していかなければなりません。若く健康なつもりでいるときはそう言えても、老いは老いのまま子の手を握ってやれる、病には病のまま孫の手を握ってやれるような自分であるかが問われてきます。いつまでも若く健康でいたい、またそうやって見られたい自分なのでありましょう。

だとすれば、氏を隠蔽しているのは社会ではなくて、老いを隠そうとし、病を隠そうとし、若く振る舞い、健康がすべてであるかのごとく振る舞おうとする私こそが、死を隠蔽する張本人として見出されてきます。

「生」を公開し「死」を隠蔽するというのは、どこまでも「生」と「死」を切り離したところの発想です。オギャーと生まれてきた生命は、誰一人として例外なくそのまま「死」が約束された生命です。私たちは「生」と「死」を切り離さず、「死」に裏付けられている「生」と、「生」に裏付けられている「死」を見つめる視座をいただいています。

025老いを生きる

伊藤宣章

若くして亡くなった方のご法事にお参りさせてもらった時のことです。亡くなられた方のご兄弟が遺影を見ながらこのように言われました。

「ずるいよね」

その一言があまりに意外で、どうしてずるいのかお尋ねしたところ、「思い出の中でいつまでも若いままの姿で微笑んでいるのに、私はこうして自分の体に悪い所や不自由なところが出てきてどんどん年老いていってるんですよね。それでずるいと思っちゃうんです」と答えられました。他の兄弟たちも頷いています。聞けば、「いつまでも思い出の中で若いのはずるいという気持ちと、それに引き換え自身は年老いていくのが寂しいという気持ちは同じようにあるんです」とのことでした。

兄弟みんな仲が良くお互いの家族も一緒に食事に行ったり旅行に行ったりしていたそうです。ずっと一緒に生きてきた人が先にいなくなり、残された自分自身のことを思わずにはおれないのでしょうね。正直なお気持ちなのでしょう。若いままの亡き人を羨ましく思い、年老いていく自身は残念であると。

しかし、若さが羨ましく老いが残念ということが決まりであれば、必ず年老いる私たちはこの世に残念無念の人生を送るために生まれてきたということになってしまいます。年老いていけば若い時には気にもならなかったことが心配になってくるでしょう、不安にもなってくるでしょう。「今のまま」がいつまでも続くとは思えなくなるのです。

そんな私たちが亡き人を通して「残念無念の人生のためにあなたは生まれてきたのですか?」というメッセージをいただいたのです。メッセージをいただいた私たちには「このままでいいのだろうか」といった思いが湧いてきます。

その昔、老病死の姿を見た王子は世の非常を悟り、道を求めて釈尊となりました。生死出ずべき道を求めた青年は後に親鸞と名告(なの)りました。

「このままでいいのだろうか」という思いは、実は大切なことなのかもしれません。