岩田信行
私は、今年(2008年)刑が確定した死刑囚に、2年前、広島拘置所で面会したことがあります。面会以来「罪」と「償い」について考えてきました。
そうしたある日、ある死刑執行報道で被害者遺族の声を聴いて一つはっきりしたことがあります。遺族の方々は「…当然のことです。しかし、死刑執行されてもあの人は帰ってきません。私たち家族の悲しみ怒りは、生涯、消えたり癒えたりすることはありません…」と語られていました。
私たちはこの言葉を聞いて「罪とは償えないものなんだ」とはっきりしました。「死んで償え」とも言いますが「死」をもって償えるのなら、遺族の思いが晴れるはずです。しかし、晴れないのです。それでは償ったことにはなりません。それは「殺せ」という「思い」が通っただけで、「思い」が通ってもその死が決して「償い」にはならないということです。
「償えないものが罪」なら「償い」とは一体、何がどうなることなのでしょう。みなさんはどう考えますか?
私たちは「死刑」を「制度」として必要とする国に住んでいます。それを当たり前のこと、人を殺したものはその報いとして殺されて当然のことという考え方が、この国の民意のようです。世論調査では国民の8割の人が死刑を支持していると言います。
その国にあって、私たちの宗門は1998年以来、死刑が執行されるたびに『死刑制度を問い直し死刑執行停止を求める声明』を世に発信し続けていることをみなさんもご承知のことでしょう。ある人は「きれいごとだ」と一蹴されますが、あなたはどうお考えでしょう?
この国の裁判は、12月(2008年)から犯罪被害者が法廷で被告人に質問したり、裁判官に求刑までできる「被害者参加制度」が始まりました。2009年5月からは「裁判員制度」が始まり、重大刑事事件の裁判に私たち市民が裁判員となって関わります。市民が市民を裁いて、しかも死刑判決にまで関わる世界では類を見ない裁判が始まります。
その国にあって、この国の主権者である「私たち」は果たしていかなるものとして生きているのか。真宗門徒として生きるとは、果たしてどういう意味をもつのでしょうか?「宗派声明」を改めて同朋の会で、みんなで読んでみようではありませんか。