池田徹
以前お聞きした話である。列車の中で、退屈し始めた兄弟が、車内の端(はし)から端まで走る競争を始めた。何回か続いたので、そこにおられたある先生が、その子のたちの母親を睨(にら)みつけた。すると母親は子どもたちに向かって「あなたたち止めなさい」と注意した。それはその通りである。しかし、次に出た言葉が「あの恐いおじさんが睨んでいるから止めておきなさい」だったそうだ。恐いおじさんが睨んでいなければ走り回っても良い、ということではない。誰かが見ている、見ていないに拘(かか)わらず、おかしいことはおかしいと言うことが大切ではないか、事実をきちんと押さえて、注意しなければならないと思う。
今の場合、子どもたちは恐いおじさんに叱(しか)られるのが嫌だから、走り回るのを止めたとすると、自らの内なる意志で考えたのではない。不都合なことに出合わないために止めただけである。逆に考えると、叱られなければ、誰も見ていなければ何をしてもいいということになる。
こういう行動パターンが他にも、我々の生活を支配しているように思う。親が子どもに「勉強しなさい」と言う。それは大切なことである。しかし「なぜ学ぶのか」をきちんと伝えないところで「勉強しなさい、勉強しないといい学校にいけないよ」とか「いい会社に入れないよ」と脅(おど)していることがある。
自らの内発的意思で行動するのではなく「こうなったら嫌だから」「あんな風にはなりたくないから、仕方なく」また「良い人と思われたいから」とか「居場所を失いたくないから」等、不都合や嫌な状況にならないようにと、そういう心が基準となって生活が行われているのではないか。それを「手段化」された生活と言う。していることが、したいこと―目的ではないからだ。
日常生活でイライラが募る、なんとなく満たされない、不安に襲われる、人生そのものに手応えがない等、感じることがある。それは生活が「手段化」され、自己も他者も「道具化」され「利用」されているからである。そういう我々の在り方を「空過」―空しく過ぎると言われている。「今・ここ・共に」ということが欠落した生活である。
「報恩講」という仏事は、新たに親鸞聖人に出会い直すことではないかと思う。親鸞聖人の絵像の讃文に「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし、能(よ)く速(すみ)やかに功徳(くどく)の大宝海を満足せしむ」と書かれている。言葉にまでなった親鸞である。「本願力に遇うことにおいて、空しく過ぐる者はないのだ」と言い切った親鸞である。
「手段化」する私の在り方を「空しく過ぐる」と言い当て、その虚偽性、悲惨さ、無責任さを知らせる本願の呼びかけ―存在にかけられている願い、いのちの叫びを聞きとっていくこと、「教え」に向き合うことそれが親鸞聖人の「報恩講」をお勤めすることではないか。「今・ここ・共に」を回復する生活である。
改めて「365日、毎日が報恩講」である。