水谷葵
今年は、老人会入会のお誘いを受け、改めて高齢に至ったことを自覚させられました。さらに、人権の仕事で中学生の人権作文に触れる機会があり、いときわ「老」を考えさせられました。「最後まで輝いて」という作文の一部をご紹介します。
仏壇に向かい静かに目を閉じると、優しく穏やかに微笑む曾祖父母の笑顔が浮ぶ。曾祖母は、10年前にパーキンソン病を発病。身体の機能は急速に衰え、食事も排泄も自分の力ではできなくなった。4年後には、曾祖父が庭の雪かきで背骨を潰し歩くのがやっとの状況になってしまい、認知症も悪化していった。家族で二人を介護する壮絶な闘いが始まった。
12月の寒い朝、起きてくると母と祖母が悲壮な顔で掃除をしていた。家中が汚物のすさまじい臭いでむせ返るようだった。夜中に曾祖父が排泄に失敗し、自分で何とかしようとパニックになったらしい。曾祖父は昔から頑固で人の言うことを聞こうとしない人だった。曽祖母はおなかの調子が悪く、おむつからあふれる汚物で、下着から布団まで全て汚してしまう毎日であった。曾祖父が曽祖母の枕もとで呟いた。
「お前はもう死にゃないかん。皆がたいへんだで、生きてちゃいかん。おらも死なにゃいかんと思っとるがなかなか死ねん」
こんな作文を読んで、自分の暗い「老い」の始まりを重く感じていました。ふと同朋会館からいただいた日めくりの「老いや病や死が、人生を輝かせてくださる」という言葉が目に止まりました。
お先真っ暗な人生の出来事が私を輝きの中に導いてくださる。それが浄土真宗の教えであると教えられていたのです。「如来の本願が南無阿弥陀仏となって私を救わんと誓いをかけ続けてくださる」と常々聞かせていただいている教えに納得していない自分がありました。
『歎異抄』9章に
死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩(ぼんのう)の所為(しょい)なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだうまれざる安養(あんにょう)の浄土はこいしからずそうろうこと(真宗聖典629~630頁)
と教えられてあります。
人生真っ暗闇と言わしめる煩悩よりも、もっともっと確かな悲願が、私に煩悩を以って目醒まそうと働いてくださったと教えられるのでありました。