芳岡恵基
今年もまた、報恩講をお迎えする時期が近づいてまいりました。私の寺でも、今月15日の晨朝から始まり、22日の女人講報恩講まで厳修させていただきます。例年、たくさんのご門徒衆と共にお迎えできることは、住職として大変うれしいことではありますが、私自身、ただ法要次第をこなしているだけになっている現状であります。
私がまだ学生の頃、ある先生から「報恩講というのは、親鸞聖人のご恩に報いる大切な法要である」と聞かせていただいたことがあります。それを聞いた時、ご恩に報いるというのは、恩返しをするということであると勘違いしておりました。一般的に、誰かに親切にされたら感謝し、何かを貰ったらお返しをします。恩を受けたら恩返しをすることが、世の中の常識になっているのではないでしょうか。
仏教でいう恩は、返すとか返さないとかいう恩ではありません。恩というのは、古いインドの言葉でクリタといいます。クリタというのは「なされたこと」という意味です。
また、報恩というのは、クリタ・ジュニャーといい「なされたことを知ること」という意味です。「なされたこと」というのは「他の誰のためでもない、この私のためだと知ること」それが、仏教でいう恩に報いるということなのであります。つまり、「恩を知る」ということです。ですから、親鸞聖人のご恩に報いるというのは「親鸞聖人によってなされたことが、他でもないこの私のためだったと知ること」なのであります。親鸞聖人に、何かをお返しするということではないのです。
では「親鸞聖人によってなされたこと」というのは、一体何なのでしょうか。それは「私たち凡夫が救われる道は、お念仏しかない」と教えてくださったことであります。私自身、凡夫の身であったことに気づかされた時、初めてお念仏の教えがこの愚かな私のためにあったと、思い知らされてくれるのではないでしょうか。つまり、事実を事実と知らせてもらった時に、初めてお念仏をいただく身となるのであります。お念仏をいただく身となり、凡夫の自覚に生きることこそ、親鸞聖人のご恩に報いることになるのではないでしょうか。
このような心で、報恩講をお迎えしたいものであります。