稲垣順一
先月、日本では歴史的な政変が起こりました。衆議院選挙の結果、民主党が大勝し政権与党となりました。ある新人議員の方が「いのちを大切にした政策を実現します」と言われました。政治政策の中で「いのち」という言葉が出たことが私には新鮮に思えました。
政治の世界で「いのち」が取り上げられるのは、「いのち」を軽視する社会の現状を憂うものなのかもしれません。しかし、「いのち」に対する問いは、突き詰めれば政治だけが問うのではなく、一人一人が問わねばならないことではないかと思います。
言葉としての「いのち」は、『広辞苑』では、第一に「生命力」、第二に「寿命」、第三に「一生、生涯」、第四に「最も大切なもの」と、4種類も挙げられています。人がこの世に生まれ、死ぬまでの間の全てに該当する「いのち」には大きな幅と深さが感じられます。
「いのち」の大きな幅や深さは、目に見えるものではありません。「いのち」を、見たり聞いたり、嗅いだり味わったり触れ合ったり、感じられるものは、その「いのち」の働きや関わりによるものです。
例えば、大切な人を亡くした時の悲しみは、亡くなった事実だけではなく、その人との関わりや働きによるものが大きいと思います。その「人との関わりやつながり」は、「いのちの関わりやつながり」と言い換えられると思います。しかし、人との関わりには、煩わしさや複雑な感情が働いたりします。その煩わしさから逃げたり、目を背けたりもします。このことが「いのち」に対する問いを曇らせているのだと思います。
「いのち」に対する問いは、「いのち」の働きや関わりに目を向けない私を気づかせてくれる機縁となっています。