海雄二
今年の夏に祖母が亡くなった。
医師の診断によると老衰であり、水を飲まず食事をとることもなく、2週間ほど意識はなく、ただ、心臓のみが動いている。個人の意思とは関係なく、もう十分ではないかと思っても、止まることはない命。
その傍らで看取る私は、子どもと一緒に、祖母が息をしているのか不安に見守る中でも「腹が減った。何かないの」と自分中心で自分自身の力で生きていると錯覚していることにさえ気づかず、ただ毎日を送っている。そんな中での祖母の死。子どもたちは、最後まで祖母のそばにいて、人の死に出会った。
しかし、火葬場で火葬された祖母を見て息子は「おばあちゃんは、恐竜の化石と一緒だね」と無邪気に皆の悲しみを吹き飛ばし、娘は娘でどの部分がどんな骨なのか興味津々で観察していた。
その後二人には、あの瞬間について特に何も聞いてはいない。けれど、きっと何か感じていただろう。あの時、共にいた私自身は祖母の姿を見て恐れていた。自らが老い、そして死ぬ不安から目をそらしてしまいたかった。
しかし、逃げることはできない。逃げられない。それは、生まれ、老い、病み、死ぬことが私自身であるのだから。そのことを、自分自身の事実として受け入れていかなければならない。
このような日々の生活の不安や病老死への恐れに惑わされる生活から、事実を事実として見つめ生活していくには、何が必要なのだろうか。
蓮如上人はこのような言葉を残されている。
仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事はいそげいそげ(真宗聖典874頁)
この言葉は、祖母の死を通して自らを省みた時に、日ごろの忙しさに紛れる中でお念仏を忘れ、惑いの中にいる自分自身の在り方を問い、聞法していく生活が、あなたにとって大切な出発点であるのだと私に呼びかけている。