荒木智哉
私が桑名別院の法務員になって3ヶ月が経ちます。勤務をしていると参拝に来られる方々の前で、桑名別院の歴史についてお話をさせていただく機会があります。歴史に触れる中で、別院がこの地域に生活する人々にとっていかに重要な場所であったかということを改めて考えさせられます。
まだ織田信長と一向一揆勢が激しい対立をしていた頃、別院は「今寺」と呼ばれていました。伊勢・尾張・美濃の三カ国の要(かなめ)の地である長島には「願証寺」という、この地域における儀式・教学の中心地とされる寺がありました。しかし、その願証寺が信長によって滅ぼされると、その役目は桑名別院に引き継がれました。
真宗高田派に伝わる『親鸞聖人正明伝』には、親鸞聖人が桑名の地を訪れたという話があります。桑名で一泊された時、地元の漁師が「殺生に携わる仕事を商いとしている私たちはこのような罪の身で助かるのでしょうか」と尋ねます。すると聖人は「弥陀の本願を信じて、お念仏を申せば善人悪人を問わず、あらゆる人々は救われます」と答えられたという話です。もしかしたらこの漁師は親鸞聖人の初めてのお弟子であったかもしれません。
その後も桑名別院は重要な役割を果たしていくのですが、昭和20年7月17日未明のB29の空襲によって市内の八割が焼け野原となり、別院は本堂も含めて跡形もなく燃えてしまいます。しかし、驚くべきことに戦後間もなく、まだ自分たちの家さえも建たず、日々の生活もままならない中で、桑名別院は5年後に再建されます。そこに込められた門徒の方々の願いとはいったいどのようなものだったのでしょうか。
私はこう思うのです。みなで勤行し、親鸞聖人の教えを聞くことを通して、日々の生活における悩みや不安など、それぞれが抱えている問題を皆に聞いてもらいたい、それに対して話し合いたいという思いが湧きあがり、その中心として別院という場が必要となってきたのではないかと。
私にとって別院はどのような場であるのか、そこに関わる者としての問いをいただいた気がします。