027いのちの願い

藤本愛吉

もう20年も前でしょうか。友人が送ってくれた寺の通信誌に、次のようなお話が載っていました。

「私たちはみな、今まで経験してきた中で、これが人生だ、これが人間だと思いこんで生きているのです。世渡りをしているのです。それで、どれだけ上手く世渡りをしていても、本当のところ、孤独でむなしく、もの足りないのです。いのちの願いが満たされていないのです。その願いとは、人間はおろか地を這うものも空を飛ぶものも、いのちといのちが共鳴し合い、通い合う世界を共にしたいと願うのです」

私はこの文を読んで、つくづくそうだなぁと思わされました。私たちの日頃の生活は、何とか自分や家族が生きていくために、また少しでも豊かな余裕のある生活ができるように、経済的関心と健康的関心の中で生きていると言っても過言ではありません。それを「世渡り」と言っておられるのだと思います。

「世渡り」、全く世の中は「世渡り」のために渦巻いているような感がします。その「世渡り」全てと思っている生活のただ中に、「どれだけ上手く世渡りをしていても、本当のところ、孤独でむなしく、もの足りないのです。いのちの願いが満たされていないのです」と言われます。ここに「いのちの願い」という新しい生の方向を示されています。いのちの願いがある、そのいのち自身からの問いかけとして、「世渡り」だけでは満たされない、という促しがあるのだと言われているようです。

信國(のぶくに)淳先生の所へ遊びに来られた方が、「最近、朝寝坊で目を覚ますと、理由のない涙が出る。別に悲しいことでもないんだけれども、日常生活の底とでもいうか、ともかく何か深い所へ落ち込んで、そこで身を横たえているような感じがして、自然に涙が出る」と言われたことに対して、先生は『梁塵秘抄(りょうじんびしょう)』の、「暁(あかつき)静かに寝覚めして 思へば涙ぞ仰へ敢(あ)へぬ はかなくこの世を過ぐしては     いつかは浄土へ参るべき」を紹介されて、

「朝目を覚ました時、自然に涙が出るというのは、いろんな雑念によって濁らされていない純粋ないのちが、行方定めなく生きている“生”自信を歎くという、そういうことではないのかね(信國淳『今生ゆめのうちのちぎりをしるべしとして』)」と語られたことと重なって聞こえてきます。いのちの願いに目覚めた方の言葉を聞いて、いのちをいのちとして全うしていきたいと思います。