米澤朋道
日本で、裁判員制度が始まりました。事件などのニュースを知って、日頃の会話の中でいろいろな視点で刑を話すことが多いかとも思います。そこでは「裁く」という立場に立って話をすることが多いのではないでしょうか。ある掲示板にあった平野修さんの「あれは嫌い これは駄目 あいつは困る こいつはいい 切り捨てる 私はどうも ハサミのようだ」という詩が表しているような私たち人間の有様であります。「裁く」という立場に立って私たちは生きてはいないでしょうか?
「人間のものさしは損か得か、仏のものさしは嘘かまことか」という教えがあります。ご本尊の阿弥陀如来は裁きを与える存在ではありません。すべての生きとし生けるものを摂取不捨で救おうという無量の用(はたら)きであります。
「神様にワイロを贈り、天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか?」と歌ったミュージシャンがいました。置き換えてみますと、「念仏を称えるという交換条件で、お浄土へ往生をねだるなんて本気なのか?」と厳しく聞こえることがあります。蓮如上人は『御文』で、「おおきにおぼつかなきことなり」という言葉や、「ふつとたすかるという事あるべからず」という表現で、人間の思い、計らいで生死出(い)ずべき道は解決できないということを教えてくださっています。
子どもからお年寄りの方まで、どこか慌しく、急がされて生きている時代、つんのめって生きている感じがする私自身も、ふと立ち止まって「これでいいのか」という仏さまからの問いかけに応えることもできないまま、生活をしています。「真宗の修業は一生の聞法である」と教えていただいて、それに尽きる、としか私には言うことができません。聞法は、凝り固まってしまった観念とは違ったところから、自己や世界を見つける視点をもつきっかけになります。一生学びの場として限りある人生を生きていきたいものです。
「裁く」ということに戻りますと、『歎異抄』の「如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」(真宗聖典640頁)という言葉が、今の時代にも私たちの姿を言い当てていると思います。