026「生」の公開と「死」の隠蔽

米澤典之

妻の出産に立ち会いました。

夫が分娩室に立ち会うことが一般的でなかった時代からすれば、限定的ではありますが、その現場が公開されるようになったといえなくもないのでしょう。そのような意味で誕生の現場が公開されてきたのに対して、臨終の現場はどうでしょう。

現代は「死を隠蔽(いんぺい)する社会」だという表現があります。かつて、畳の上で家族に看取られながら迎えた最期の時は、いまひっそりと病院の個室で迎えるのが一般的です。さらには通夜も葬儀もしない直葬や家族葬が流行し、友人や知人、果ては親族の死の事実を年末の「喪中葉書」によって初めて知るような現実です。「死の現場」がますます隠されている現実です。

出産の現場に立ち会うことで、「生」と「死」の現場のギャップが引っかかってきたのです。家族の臨終を看取るということは、見ておかずにはいられない、知らずには生きていかれない大切な姿として、その厳粛な場に立ち会わされるということです。その現場から離れるわけにはいかないような間柄を、関係をいただいているのです。

また家族を看取ることは想像できても、看取られる側となればどうでしょう。その姿を見せたくない、見られたくないという思いもあるかもしれませんし、現実的には子や孫がそろって臨終に立ち会えるような状況を整えることは困難なのかもしれません。たとえそうだとしても、せめてその遺体に触れる場が欲しいのです。その現場に立ち会うことでしか、その触れた感覚でしか伝わらないことがあるのです。

「死人」を遠ざけてはいけない、同時に「老人」や「病人」を遠ざけてはいけない。それを私自身が実践していかなければなりません。若く健康なつもりでいるときはそう言えても、老いは老いのまま子の手を握ってやれる、病には病のまま孫の手を握ってやれるような自分であるかが問われてきます。いつまでも若く健康でいたい、またそうやって見られたい自分なのでありましょう。

だとすれば、氏を隠蔽しているのは社会ではなくて、老いを隠そうとし、病を隠そうとし、若く振る舞い、健康がすべてであるかのごとく振る舞おうとする私こそが、死を隠蔽する張本人として見出されてきます。

「生」を公開し「死」を隠蔽するというのは、どこまでも「生」と「死」を切り離したところの発想です。オギャーと生まれてきた生命は、誰一人として例外なくそのまま「死」が約束された生命です。私たちは「生」と「死」を切り離さず、「死」に裏付けられている「生」と、「生」に裏付けられている「死」を見つめる視座をいただいています。