小宮暁海
私の実家はお寺ですが、それにも関わらず、「亡くなった方」にお会いしたことがありませんでした。その理由は「ただ嫌だから」ということと、親しい人が亡くならなかったからということでした。
しかし、最近、短大時代の先生が亡くなり、お通夜に行き、先生の亡骸にお会いしました。この時、初めて「亡くなった方」に会いました。私の頭の中での先生は、講義をしてくださっていた時のままで止まっていたので、別人のように変り果て、棺の中で合掌しておられる先生の姿を目にした瞬間、あまりのショックで、その場で大泣きしてしまいました。その時はお会いしなければよかったと後悔しました。
しばらく先生のことが頭から離れず、いろいろ思い返していました。先生の講義は私には難しく、なかなか理解できずにいたので、いつも講義の後に「小宮さん難しかった?どこが分からなかった?」と心配そうに声をかけてくださっていました。今になって、難しい講義ではなく、人が生き、老い、病み、そして死んでいく姿を、頭の中でしか分かっていなかった私に身をもって教えてくださっていたのではないかと感じました。
真宗では、葬儀や法事というものは、亡くなった方をご縁として仏縁に出遇わせていただくものだ、とよく教えられます。人が亡くなるということは悲しいことですが、悲しい思いに深く沈んでいくだけの場ではなく、亡くなった方と自分自身がもう一度出遇える大切な場だと教えられました。
最近、宗教離れや葬儀離れが進んでいます。人が生まれる時はお祝いするものの、人が亡くなることに対して目を背けがちです。人が生まれるのも、亡くなるのも一度しかありません。その場に出遇えることこそ、本当に「有り難いこと」だと思います。