024『女犯偈(にょぼんげ)』に思う

酒井誠

親鸞聖人の肖像画の一つに『熊皮(くまがわ)の御影(ごえい)』があります。たいへん厳しいお顔のその肖像画に『女犯偈』と一般にいわれる文が書かれています。

行者宿報(ぎょうじゃしゅくほう)にてたとい女犯すとも、我玉女の身となりて犯せられん。一生の間能(よ)く荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしむ(真宗聖典725頁)

という文です。その文は私たちに何を教えているのでしょうか。

女犯は性に関わることですが、私たちは性をタブーとし直視しようとしません。性を語る時には恥ずかしさや自分の品位を落としてしまうのではないかと感じたりします。また性を語りすぎると煩悩の固まりと言われたりします。性欲ということもありますが、愛という姿でお互いを求めていく場合には美しさももちますが、同時に支配欲とか嫉妬というドロドロとした面もあります。そして他人を排除することさえあります。思い返せば私たちの人との関わりは煩悩においての関わりなのでしょう。

つまり自分の都合のいいように人を利用します。その関わりの中でも特に女犯、性に関しては、食欲や睡眠欲、物欲に比べ人を求めますから、煩悩が渦巻きます。それが私たちの裸の人間存在なのです。そのことに自己嫌悪という形でかすかに気づくことはありますが、その時は暗くなってしまいます。

『女犯偈』が私たちに教えていることは、「煩悩の我が身を汚い醜いと貶(おとし)め嘆く必要はない。煩悩の身のまま明るさと歓びを回復していく世界へ促してくださる。それが如来のお心だ」ということです。そのお心に触れて人と人とが共に出遇い、共に敬える世界が開かれるのでしょう。