023本当の言葉

三枝明史

「生きていてくれてありがとう」これはある映画の中の台詞です。自分は生きていてはいけない人間なのではないかという罪悪感を抱えて、周囲の人々とも積極的に交際できなかったヒロイン。そんな彼女が好意を寄せる男性に、自分の身の上や心の苦悩や葛藤や思いの丈をぶつけます。その時、男性の口をついてこぼれ出たのがいまの一言でした。この一言によって、彼女は自分は生けていてもいいのだと、初めてこの世界を信じることができたのです。そして、彼や周囲の人々に対して心を開いていくのでした。

「生きていてくれてありがとう」という彼のこの一言が、どうしてヒロインの心を変えたのでしょうか。それはこの言葉が無条件の言葉だったからでしょう。彼女の過去も苦悩も、彼女のすべてをそのままに受け止めて、そのままに肯定する。そこには「こうすればよかったのに」とか、「そんな考え方は間違っている」とかというような感想や批判は一切ありません。ましてや変な計算などもありません。その人の存在のすべてを無条件に認めて包み込む、そんな言葉だったからではないでしょうか。彼女の「いのち」はこの言葉に出遇うことをずっと待ち望んでいたのかもしれません。そんなふうに私は思いました。

仏教では「染汚(ぜんな)」といって、人間の言葉や行動に厳しい見方をしています。行動は計算絡み、言葉は条件絡みであると。だから汚れているのだと、人間であることの罪を指摘しています。確かにその通りで、「百点を取ったら良い子である」とか「製品のコストはいくらで」とか、この世界の言葉は条件付きばかりです。私たちはそんな言葉に振り回されるばかりで、いつしか心をすり減らし、生まれてきたこの世界や人間を信じられなくなったり、憎んでいったりするのでしょう。

人生のどこかで私たちの全存在をそのまま認めるような、そして無条件に認められていると信じられるような、そんな言葉に出遇えるならば、私たちの世の中に対する構え方も変わるのかもしれません。

私たちの阿弥陀如来のご本願は「私の名を呼ぶすべての人を、その人のそのままで、救わずにはおかない」という無条件の言葉です。本当の言葉との出遇いこそが本当に人を救うのではないでしょうか。そして、現代こそ本当の言葉が切に必要とされているのではないでしょうか。