017「いのちの尊さ」を大切に毎日を生きる

高見敏郎

「いのち」の尊さが叫ばれ、「いのち」の大切さが問われてから久しくなります。「自分のいのち」も「他人のいのち」も顧みられない時代になったと言っても過言でないと思います。「いのち」は自分の都合ではどうにもならないものです。「いのち」は授かりものであり、自分一人で生きているものではなく、多くのものの「いのち」をいただいて生かされているものであります。私は以前、自分の努力、自分の力で生きているものだと考えていました。

私は戦前、戦中、戦後に渡って教育を受け、戦後学制改革が行われた年に教師になり、長らく子どもの前に立ち、私の教育信条をもって、激しい時代の変遷の中でその対応を考え、子どもと向き合ってきました。私の退職数年前、即ち昭和55年頃から中・高校生は、たいへん荒れる時代になってまいりました。

私は心の中に多くの課題を残して定年退職しました。その頃、幸いにも「仏の教え」を受ける機会に恵まれ、以後現在まで、多くの機会に真宗の教えを学ばせていただきました。

「生かされているいのち」をどう生きるべきかを、毎日自分に問いかけています。

最近特に、「生かされている毎日を自分らしく生きる」とはどんな生き方か。毎朝、お内仏の前でお勤めをし、静かに自分に問いかけています。また、月一回の「月参り」には住職さんの法話をお聞きし、『歎異抄』を学ばせていただき、どう生きるべきかを話し合わせていただいています。

日常生活では、毎日日記を詳しく書き、一日の反省をしています。自分に都合のよい生活の繰り返しです。そんな生活の中で親鸞聖人の教えに生きるとはどういうことなのかを自分に問いかけています。生涯、問い続けていきたいと思っています。