014私を照らしていただく 

加藤秀丸

私にとりましては、テレホン法話を担当しましたことで、たくさんの気づきをいただくご縁となりました。

もともと私は、法事の席などでお話しさせていただくことは、そんなに苦手ではないつもりでおりましたので、テレホン法話は3分程度のことですし、取り立てて難しくは考えておりませんでした。ところが、いざ原稿を書こうとしても、テーマらしきものが一向に定まらず、不思議でした。いつもですと、ふっと自分の中に湧いてくるものがあったりするのですが、そういうことがないものですから、仕方なく基本の基本のようなことをして、浄土真宗とは、お念仏の教えとは等、頭に巡らしてみるのですが、ますます頭の中が散らかっていく感じがするだけです。知識としての考えしか出てこないのです。それから長い時間、今までの自分にないほどに、この問いについて考えることになりました。

ここでは時間がありませんので、これ以上触れることはできませんし、この問いの答えも、まだまだ次々に変化していくとは思われるものの、今の気づきとして最も重要なことは、私が、浄土真宗に対して心を開いてこなかったということです。これは多分事実であると思います。

ではなぜ、日ごろ親鸞聖人の教えや、蓮如上人の『御文(おふみ)』の話をもっともらしくしている自分が、この教えに心を開いていないという矛盾に気づかずにいたのか、法話ではなく、法話らしきもので十分に満足している自分がいたのか、机に積み上げたそれらしき書物と、そのたくさんの文字を眼で追うだけで済ませていたのか。おそらく自分の意識に上がっていなかったのですが、浄土真宗に心を開くということは、真実の自分を見る覚悟を避けてはなし得ないであろうことを、無意識の自分は知っていたのだと思います。ひょっとすると、意識には上がっているのに、自分と出遇う勇気が無いだけかもしれません。

本当の自分と出遇うことが、何をもたらすのか。私にはいまだ分かりませんが、少なくとも今までの50数年の自分が、すべて無に帰すのではないかという恐怖におののいていることは事実です。

今朝、たまたま開きました広瀬杲先生の本の中の数行が目に飛び込んできました。そこには「救われるということと、救われた気になるということは、全く質を異にした事柄なのです。救われた気になることこそ人間を本当の救いから一番遠ざけてしまうのでありましょう」とありました。私自身本当に恥ずかしい告白でありますが、やっと入り口の方向に向かえた気がいたします。