大谷聡
「虚仮(こけ)」という言葉があります。『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』では、
「虚」はむなしいという。「仮」はかりなるということなり。「虚」は、実(じつ)ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいうなり(真宗聖典547頁)とあります。
このことを思うと、私は本当に穴があったら入りたいという気持ちになります。私の日々の暮らしを振り返ると、何ともお粗末な気持ちになります。到底、念仏者の生活とはかけ離れたものではないかと。確かに、実際の生活は現代社会の中にあって極めて複雑で多忙なものです。自らを振り返る余裕のないものとも、またその仮の宿に安住しているものとも言えるでしょう。
先般もこんなことがありました。世には多くあることではありますが、私の母親が生死にかかわる病気をいたしました。すると、私はたちどころに大慌て、右往左往して、何も手がつかない状態なのです。死というものを改めて身近なものとして感じているのです。人の生死に深くかかわり語り学ぶ僧職に就いているにもかかわらずなのです。我が身の上でなければ、どこかで理屈になっている部分があるのです。勤行・聞法とは名ばかりで、生活の中にそれが身となり糧とはなっていないのです。
自らの都合や物差しで計る。人はそこからなかなか抜け出せないものです。心の根深い所で煩悩がでんと居座っているのです。この性根の悪さを他のもの、例えば世間や多忙さにすり替えて、自らを見つめ直す、内省することから逃避しているだけなのです。念仏者の生活どころか、まさに「虚仮」の生活と言えるものだと思います。
親鸞聖人は、その『悲歎述懐和讃(ひたんじゅっかいわさん)』の中で、
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
清浄の心もさらになし (真宗聖典508頁)
とおっしゃられております。どこまでいかれても、さらになお自らをお問いになられているお姿があります。そして、それはまた、私へのご指摘でもあります。それは私の歩むべき道を示されておられるのではないでしょうか。
「自らの虚仮を見つめなさい。念仏が生活となりなさい」とおっしゃられているのだと思います。