飯田尚子
今回は、「無上尊」という言葉についてお話したいと思います。「無上尊」とは、この上もなく尊いという意味です。
釈尊はお生まれになった時、「吾、当(まさ)に世において無上尊となるべし」と言われたと伝えられています。世に生まれたのは無上尊になるためだと。「天上天下(てんじょうてんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」とも言われています。ただ我一人尊い、この世の中にあって、何が本当に尊いことなのでしょうか。
私がそのことを強く感じたのは浜崎あゆみの「End of the World」という歌からです。最初の歌詞は「自分よりも不幸な人を見ては少し慰められ、自分よりも幸せな人を見つけたなら急に焦ってる」というものです。その歌を聞いた瞬間「私のことだ!」と思いました。「不幸な人」をどこかで自分の慰めに見ていた事実を否定できませんでした。
私たちは人より自分の境遇は良い方だと思って安心を得たり、他者と比較することで自分の価値を見出そうとします。そうしなければ「自分」を保っていられないような不安が根っこにあります。
その後に続く「幸せな人を見つけて焦る」というものは、人よりちょっと幸せでありたいという欲求や、もしくは、何で自分だけ…という悲壮感から起こる焦りを歌っています。どんな人でも比較対象にしていること、他者との関係の中で無意識に上下をつけて見てしまっていることを改めて気づかせてくれる歌詞でした。その後、歌は「私は何を思えばいい、私は何て言ったらいい」と続きます。そんなあり方に疑問を投げかけてきます。
源信僧都(げんしんそうず)が著した『往生要集』(巻上)のなかには、「もし智慧ある人、一念も道心(どうしん)を発(おこ)せば、かならず無上尊となる。つつしみて疑惑をなすことなかれ」とあります。「道心」とは菩提心(ぼだいしん)のことです。菩提心とは仏道を歩もうとする心です。仏道を歩むこと、それは一人の旅であり、同時に独立して立つことのできる身になるということだと思います。仏をこの身の上にいただいて、自分の向いている方向が定まると、一人(いちにん)になれます。「いちにん」それは孤独な存在を指すのではなくて、一人一人が「いちにん」として見いだされていく、比べる必要がなくなるということです。
しかし、やはり隣の人は気になります。優越感や劣等感は次から次へと起こっていきます。そんな時、「無上尊」という言葉を思い出します。何を求めるのか、何が願われているのか。「無上尊」の意味を問い続けることによって、尋ねていきたいと思います。