原田憲昭
「彼岸」と題しましてお話を申し上げたいと存じます。
私の記憶では、小さい頃、彼岸になると母親がよくぼた餅を作ってくれました。仏様にお供えしますが、待ちきれなくて食べていたことが思い出されます。
昨今、若い人は宗教に対して関心が薄れてきたと言われております。しかし、この彼岸の季節になると、日本各地で家族そろってお墓参りをする姿をメディアで拝見いたします。私の寺でも例外ではありません。お墓を回ってみますと、ほとんどのお墓が綺麗な花に変わっております。
このように、私たち日本人には彼岸という概念が存在意識にあり、人々をその方向に動かしめているのではないでしょうか。その意識の背景には何があるのでしょうか。
自分の都合に左右される私たちの日常生活は、たいへん苦労するものであります。苦から逃れるために、楽なるものを求めて一生懸命に力を注いで生きております。仏教では楽になりたい心が消えたことが、涅槃(ねはん)であると言われております。楽にならなくてもいいと思う世界、喜んで苦楽を受け取っていける生き方が、生死を超える道であると教えております。
親鸞聖人のご和讃に
無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死(しょうじ)大海(だいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ (真宗聖典503頁)
とありますように、お念仏の光によってこの無明の世界を照らして、絶対に間違いのない「彼岸」に生まれさせていただくことです。
先月21日、ご門徒の伊藤さんが81歳で亡くなられました。3年前に奥様を亡くされ、ご本人もその頃がんを発病され、入退院されておりました。その中で、「楽になろうと思って財を作ってきたけれども、自分にとって何の役にも立たんことでした。ただ仏様を信じるだけです」と言われ、手を合わせ、小さい声で「ありがとう。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と言われました。
伊藤さんは仏様の呼び声に触れられ、自己の内面に目覚めて、お念仏を申す身となって、往生の道を開かれたことと思います。