伊藤誓英
昔、参道に蝋梅という木がありました。黄色の蝋細工のような色と艶の花を咲かせるので、蝋梅と呼ばれているそうです。
当時、境内整備の事業の一つに参道の木を伐採し、新たに駐車場を造るという計画があり、その伐採される樹木の中に蝋梅がありました。
その中でも一番手前にあった蝋梅は工事作業車が引っかかるとのことで、針金でグルグルに縛られたり、邪魔なところをザクザクと剪定されたりと、まあ最終的には処分する木だということもあり、たいへん雑な扱いでした。そのため樹形としては無残な姿になっていました。
ある日お参りに来られた門徒さんが、
「この蝋梅は無くなるのですか」
と聞かれました。
「そうなんです。移植するにも場所もないので…。かわいそうですが」
と話していると、
「残っている枝を切っていってもいいですか。床の間のお花にしたいので…」
私は内心「こんな不恰好に剪定された枝で生け花なんて…」と思っていました。でも、後日その門徒さんの家へお参りに行くと、床の間にその蝋梅の花が生けてあり、たいへん美しく、まさに一本一本が互いをかばい合い、助け合っているように立てられていました。私は本当に驚いたことを今でも覚えています。
生活の中には色々な「とらわれたものの見方」があります。それは物だけではなく、他人に対しても自分自身に対してもだと思います。私には囚われがあるにもかかわらず、その囚われている事実には自分一人だけでは気づくことができません。この出来事から、私自身の囚われによってこんなにきれいな物を不恰好とみていた自分を知りました。まさに、その門徒さんと蝋梅に囚われをもつ私の姿を教えていただいたのでしょう。
今でも蝋梅の花を見るたびに問いかけられます。私の囚われの存在を…。