006もったいない 

藤谷英史

昨年の暮れ、友人から宅配便で小包が届きました。開けてみると「ふろしき」包みが出てきたのです。中身のことはさておき、その風呂敷の柄が凝っていて、幾種類もの風呂敷を使った包み方が、柄になっているのです。さらに、包み方の柄のところどころに「ふろしき」「もったいない」の文字が図案化された柄も混じっていました。隅っこに縫い付けられている品質表示のラベルの中には「MOTTAINAI」のローマ字と、小さく「ワンガリ」と読めるサインが目にとまりました。ここで、2004年にノーベル平和賞を受賞したアフリカのケニアの環境副大臣であったワンガリ・マータイさんが来日された時、日本語の「もったいない」に出会い、この言葉こそ地球環境を守る世界の共通語だと訴えられたことを思い出しました。

この風呂敷包みの贈り物をいただいて、まず思ったのは日々の生活です。「忙しい、忙しい」と言い、一方では豊富な物、便利な物の中で生活しながら、何か物足りないものを感じているのが現代の世相ではないでしょうか。物の無かった子どもの頃、例えば母に新しい足袋を縫ってもらって、翌朝から履いたあの時の言うに言えぬ嬉しかった気持ちは、もう今では体験できないものです。身近な生活の中のふとしたことに、小さな喜びを感じなくなってしまっています。「もったいない」とは反対に、いくらでもある、どうにでもなると知らず知らずのうちに私の心に巣くっていた傲慢な心、つまり煩悩が私を支配していたことに気づかされました。

こんなことですから、まだ使える物でもより良い物が出ればつい欲しくなったり、少し故障でもしようものなら新しく買い替えることを考えてしまいがちです。自然の中で美しい空気が吸え、水が飲め、身体が働き続けて、日々命をいただいていることは当たり前のことだと決め、むしろ「自分の力で生きているのだ」という錯覚すらもっているのが自分なのでしょう。

今回のこの風呂敷包みの贈り物は、マータイさんが指摘した「もったいない」という言葉を通して、煩悩の虜(とりこ)になっていることすら気づかずにいる私を知らせてもらって、何よりも尊い仏法をいただいたものと受け止めさせてもらったことです。