004布施の心で 

山阿礼子

休日の朝、新聞を読んでいる私のそばに2人の子どもがそろってやって来て、取り留めのない話が始まりました。何やら楽しげに笑いころげています。子どもたちの話に耳を傾け、笑顔をながめていますと、何とも言えない幸せな気持ちになってきます。ところが、新聞から飛び込んでくるニュースは、いじめによる自殺、親殺し等心痛むものばかりです。なぜ、こんなに思いやりの心、親子の絆(きずな)が薄れてしまったのでしょうか。温かい心が息づかなくなってしまったのでしょうか。今、傍(かたわ)らで笑っている我が子が大人になった頃は…としみじみ考えさせられてしまいます。時代は変わりつつあると言いますが、この先どのように変わっていってしまうのでしょうか。

考えてみますと、昔よく歌った童謡も、最近はあまり聞かなくなったように思います。

「夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か」と、秋の夕焼けの頃、こんな歌を口ずさみながら、友と共に帰路についたことは、今も私のほのぼのとした思い出となって残っています。

この「負われて」というのは「おんぶされて」ということですが、その中で互いの身体のぬくもりが伝わり合い、その温かさから愛情を感じ、そして、心も育っていったのだと思います。「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉もありますが、こんな歌が心の中に浸みてこない今を淋しく思います。

もう一つ思うことは、布施の心ということについてです。布施とは、仏様に捧げる法礼を指すだけのように思いますが、語源はインド語の「ダーナ(dana)で、施しをする行為と言われており、「法施(ほうせ)」「(ざいせ)」「無畏施(むいせ)」の三つがあると聞いたことがあります。

お正月に母と会った折、こんな話を聞きました。80も過ぎ足腰が弱った母が荷物を持ちやっと歩いていますと、通りかかった一人の青年が「持ちましょうか」と声をかけて下さり、荷物を持って一緒に歩んで下さったそうです。母は心より感謝し、お礼を言いましたら、「お気をつけて」と、いたわりの言葉と笑顔を下さったと嬉しそうに話してくれました。

優しい言葉をかけたり、笑顔で人に接したりすること、これこそ布施の一つ「無畏施」ではないでしょうか。私たちの生活の中にこのいたわり合う心や言葉、笑顔あふれることが多くなっていけば、争いやいじめなどの殺伐とした事件も無くなっていく一つの光になるのではないかと思います。

私も「和顔愛語(わげんあいご)」と言うように、いたわりの心と笑顔の布施を大切に日々過ごしていきたいと願っています。