001日々新た 

橘秀憲

謹んで新春のお慶びを申し上げます。昨年は、一年を表す漢字に「偽」の一字が選ばれました。揮毫された清水寺の貫主も「大変恥ずかしいことである」とテレビインタビューに答えておりました。人の為と思いながら、いつのまにか自分のためにルールを破ってしまって偽る。残念なことですが、誰にも覚えのあることです。

大晦日の夜に除夜の鐘の音を聞きながら新しい年を迎えるのが、私たち日本人の年中行事です。あちらこちらから鐘の音が聞こえ、ラジオやテレビでも各地の除夜の鐘が放送されます。仏教では、人間に百八つの煩悩があって、梵鐘の音を聞くと、その煩悩から解脱するというふうに言われているところから広まったようです。一つ一つの煩悩から解き放たれて自由になり、新しい気持ちで年を迎えることができますよう、大晦日に鐘を聞きながら払い清めるということのようです。聞くだけでなく自分で撞けばさらに効き目があるということなのでしょうか。

ここ桑名別院では、年があらたまってから初鐘として撞いていただいています。私たちは生きている限り、さまざまな煩悩が次から次へと起こってきます。そういう煩悩を断つことは難しく、決して無くならない。煩悩から解き放たれることは無いわけです。煩悩まみれであるという自分を確認する除夜の鐘にできたらと思います。

浅田正作さんの『骨道を行く』という詩集の中に『日々新た』という題で、

つまれても つまれても 新しい芽 煩悩の芽

大悲の大地に抱かれて 勿体なし

今日もまた 鮮やかな芽 煩悩の芽

という詩があります。親鸞聖人は、

凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(真宗聖典545頁)

と示しておられます。常に自身の在り方を確認しながらこの一年を過ごしていきたいと思います。