片山寛隆
今年もいろんなことがあって、またそれが過去のこととなって忘れ去られていくことでしょう。あの時は激しく怒り、また涙が何時まで止まらないだろうと思ったことも、時が経てばそんなこともあったなというほどになるものです。
この一年、内外を問わず直接に私たちに関係してくる事柄に一喜一憂し、不信と不安が増幅したことは言うに及ばないことです。小泉総理大臣の靖国神社参拝問題が、国内において賛否両論あることと別に、中国・韓国を始めとするアジアの国々から突き付けられた参拝批判に対し、総理は「今それぞれの国とも経済や文化の交流についても良好な関係を構築され、友好関係を結びつつあるものを、一つのことを問題にしてすべてのことをご破算にすることは、両国にとっても得策ではない」と記者会見でも発言をしていました。過去のことは綺麗さっぱり水に流して、将来に向かって手を取り合って行きましょうということでしょう。
このような考え方が日本人を覆っていることも事実として受け止めるとともに、私たちの先人はこのような時、どのように受け止め、どう応えてきたことでしょう。
私が幼かった頃、お寺にお参りに来られるお婆ちゃんの口から「業が深い身やでなぁ」という言葉を思い起します。『現世利益和讃(げんぜりやくわさん)』に
一切の功徳にすぐれたる
南無阿弥陀仏をとなうれば
三世(さんぜ)の重障(じゅうしょう)みなながら
かならず転じて軽微(きょうみ)なり(真宗聖典487頁)
とあります。そのお婆さんの中に、この和讃が身となって働いて出てきた言葉だったと、今気づかされたことです。三世とは、過去・未来・現在の罪ということを背負っていく自覚のお婆ちゃんの言葉であり、それを忘れて生きる我々の生き方を「流転輪廻(るてんりんね)のつみ」と言い当ててくださっているのではないでしょうか。