伊藤一郎
今年も報恩講の時期が参りました。
昨年の桑名別院報恩講は例年の通り12月20日から4日間厳修され、23日ご満座法要の日を迎えました。私は当日境内の駐車係としてお手伝いさせていただきました。その日は寺町で催される三・八市や年末の墓参りのご門徒と重なり、境内は満車で整理のつかない状況となりました。丁度そんな時、ご年配の男性が自転車を引いて入ってこられ、
「あなたは今日の係かね。私ら墓参りの道をどう考えているのか。出入り口もなし、通路も全く塞ぎ報恩講もないでしょう。すぐ車を移動するように」
と鋭く注意を受けました。急遽対応しようにも既に詰め込んでしまった車を動かしようもなく、お詫びの言葉もそこそこに対策を思案しておりますと、丁度三・八市帰りの一台の車が出入り口付近から出て行き、通路が空きました。注意した男性をよく見ますと、右足が不自由で自転車を杖代わりに使っておられたのです。そのため、自転車ともども狭い通路を通る必要があったのです。
「身体の不自由な人のことをあなた方は気遣っていないのか。親鸞さんが泣きますぞ」
男性の最後の言葉に私はたいへんなショックを受けました。「自分さえよければいいこの悲しさ」浅田正作氏の詩の言葉を思い起すのです。
自分の意識が作り出す幻影に振り回され、自らの都合のみで生きている自分に気づかされずにはおれません。何のことはない念仏しながら自分を中心に生きてきた私なのだと気づくのです。
◎自我の塊であり自分の闇そのものであろうか。
◎報恩講のお念仏に導かれ私の身勝手さに今また気づくのです。
◎そしてそれは自転車の老人ではなく、仏様そのものだったのです。
南無阿弥陀仏