035いのちの感覚の回復

花山孝介

師走に入り、年の瀬も近づくと、多くの人が忙しく動き回ります。殊更に急を要した理由がある訳ではありませんが、兎に角、忙しい忙しいと皆口にします。しかし、それは師走に限ってのことではないのでしょう。日々の生活そのものが行くべき方向を知らずに、悪戯(いたずら)にただ慌ただしくしているだけかもしれません。

世間では「忙しくて仏法を聞く暇もない」と言う人がいます。しかし、忙し過ぎて死ぬことを忘れた人がいたとは、これまでに一人も聞いたことがありません。

いつまで生きても退屈しない。何時死んでも後悔しない。そういう人生を、今、私は送っているのだろうか。改めて、年の瀬を迎え、忙しいと言っているその有様から、日頃の生活の中身が問われているように思われます。

かつて「生活はいのちの表現である」と聞いたことがあります。目に見えないいのちが、目に見える姿をとり、耳に聞こえる声となって、一挙手・一投足の動きをもって表現し続けているということでしょう。心臓は休むことなく鼓動し続けています。肺が呼吸しています。そこにいのちあって生き続けている証(あかし)があると思います。まさに、生活する刻一刻は、私が全身をもって、命を証明し続けていることではないでしょうか。幼児は全身全霊をもって、限りないいのちの感動を表現しています。しかし、年々歳々、理知分別が身につき、自分だけの世界に閉じ籠るようになった今の私たちは、忙しさにかまけて、いのちの輝きを見失って生きて、また今年を終わろうとしています。

やがて迎える新しい年を機に、これまで見失っていたいのちの感覚をお互いに回復したいものです。