034晩秋に思う

松嶠律子

深まりゆく秋の景色を見ながら、夕暮れ時なぜかしら寂しく思います。若い頃、実家の方角へ沈む夕日を見て秋は何とも言えぬ、寂しさを感じたのとは別の思いです。今は私の人生と照らし合わせて見ているせいでしょうか。最近、気は若いつもりでいますが、確実に歳を感じます。目の衰えであったり、物忘れが多くなったり、ちょっとした所でつまづいたり、疲れが二・三日遅れて出てきたりだとか、そんなことが多くなってきました。つい数年前、ボランティアでお年寄りの方々と接する時、私はまだまだ若いと思い、老いなんてずっと先のことと思っておりました。もう孫がいる歳なんだし、当たり前のことなのに気持ちがついていかなくて困ったものです。秋から冬へと季節は変わっていきます。寒い冬に備え衣類や暖房と生活する上での準備はできますが、人生の冬へと向かう準備はと思うと、立ち止まってしまいます。どんな心構えが必要なのか、何をすべきなのか不安で一杯になります。そんな時、歎異抄の言葉を思い出し、道が見出せたような気がしました。
なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば)の縁(えん)つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり( 真宗聖典630頁)

いろいろ心配はあろうともその時が来たなら、阿弥陀様のお浄土へ往けるのです。ですから、煩悩に右往左往されながらでいい、ただ生かされている命を大切にして欲しいという如来様の願いを聞き取っていこうと思えたのです。

走り続けてきた人生、今一度立ち止まり、見つめ直し、私らしい日々を送って行きたいと晩秋の日、思いました。