本多武彦
少しずつ秋の色合いが深まりつつある中、世間はレジャーシーズン真っ盛りというところのようです。テレビでは、各地の名所、温泉、グルメなどを紹介する番組が流れない日はなく、書店の旅行に関するコーナーには、それらの特集記事が載せられた雑誌やガイドが溢れんばかりに並んでいます。バブルがはじけ、経済的な不安が高まり続ける現在においても、日本人の旅行熱は冷める気配がないようです。これほど我々を突き動かして止まないものは一体何なのでしょうか。もちろんマスコミや企業の商業主義によって、好奇心や購買欲、食欲などを煽り立てられていることは確かでしょう。しかし、それらの表面的な理由の奥に、もっと根本的な欲求があるとは考えられないでしょうか。
『歎異抄』第2章には「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命(しんみょう)をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御(おん)こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」(真宗聖典626頁)との一節があります。日帰りの海外旅行すらできてしまう現在からは、なかなか想像もできませんが、聖人御在世の頃には旅行自体が命がけのことであったようです。それでも、問い聞かずにはおられないという御同朋たちの深い願いは、彼らを遠く関東から京都の聖人の元へと誘ったのでしょう。こうしてみると、同じように十余か国の境を越えるにしても、我々のそれとはずいぶん趣が違うように思われます。しかし、もう少し考えてみると、我々が「旅」してみたくなるのも、日常生活の中で感じられる閉塞寛や虚しさ、その他様々な問題から自分を解放したいということであるならば、かつての御同朋を京都に上らせたものと、その動機において相通ずるものがあるとは言えないでしょうか。
人生はよく旅に譬えられます。秋の夜長、自分を動かさずにはおられないものに思いをいたしてみるのも、またひとつの旅であると言えるかもしれません。