029お彼岸

大谷麗子

本堂の裏の香部屋にいますと道を通る人が足を止めて、道の向こう側の畑の人と大声で話している声が風に乗って聞こえてきました。

「何蒔いとるの?」

「それが彼岸に入ったで蒔けやんのさ」

「あれ、あんたとこ門徒やろ、門徒の人らはそんなこと気にせんのやと言うて、皆蒔いてやないか、私ら禅宗の者も真似しょうかと言うとったとこやのに」

といった話でした。

山間僻地の閉ざされた土地に住んでいるので朴訥(ぼくとつ)で素直な人が多く人の言葉はそのまま受け止めます。世間が狭いので回りを気にし過ぎる欠点もあり、迷信の温床でもあります。迷信と分かりきっていても昔からしていたことは止められません。

常に人の目を気にしますから、彼岸に種蒔きができないと言った人は相手が他宗の人だったから気を遣って言ったものと思われます。それが反対に私たちも真似たいと言われさぞびっくりしたことでしょう。

門徒数が他宗の三分の一程しかないこの土地では、こんなことに気を遣う人もいるのかと胸が痛みます。

でも、何故この土地に彼岸に種蒔きをしたらいけないという言い伝えがあるのでしょう。彼岸の頃は冬野菜の種蒔きに一番いい季節なのです。きっと畑仕事は毎日のことだから彼岸にしなくてもいい、お寺で彼岸会が勤まっている、種蒔きなどしていないでお寺にお参りに行って来いと言う姑の言葉が「彼岸に種蒔くな」というようになっていったのだと思います。

今のこのような現実の姿を見越したように親鸞聖人は『悲歎(ひたん)述懐』の和讃で次のように詠まれています。

浄土真宗に帰(き)すれども

真実の心(しん)はありがたし

虚仮不実(こけふじつ)わが身にて
清浄(しょうじょう)の心(しん)もさらになし

改めて身に深くいただきたいことでございます。