黒瀬達昭
かかりつけの総合病院に「あなたが赤ちゃんを選んだのではありません。赤ちゃんがあなたを選んで生まれてきたのです」という壁紙が貼ってあります。昨今、幼児虐待の痛ましい事件が後を絶ちません。この壁紙も、幼児虐待や育児放棄が社会問題となる中で張り出されたものなのでしょう。
親鸞聖人は私たちを、お釈迦様の説かれた教えが衰退し(末法)五つの濁りの中に生きるもの(五濁悪世の有情)だと指摘されています。「五つの濁り(五濁)」とは人の心が邪悪になり(衆生濁[しゅじょうじょく])、自分の悪に気づかず他人の正しさも認めず(見濁[けんじょく])、何につけても貪り・怒りの心を起こし(煩悩濁[ぼんのうじょく])、慈しむことを知らず自分の命も他人の命も粗末にし(命濁[みょうじょく])、ついには時代そのものが悪に満ちていること(劫濁[こうじょく])です。まさに現代そのものではないでしょう。
さて、では先ほどの壁紙の「赤ちゃん」を「阿弥陀如来」に置き換えたらどうなるでしょう。「あなたが阿弥陀如来を選んだのではありません。阿弥陀如来があなたを選んで生まれてきたのです」となります。
阿弥陀如来は、私たちが頼む頼まないに関わらず、濁り迷い続ける私たちの姿を大いにに悲しまれ「すべての生きとし生きるものを救い、浄土に収めとる(摂取不捨[せっしゅふしゃ])」という願いを立てられて、私たち一人一人の前に現われてこられたのです。つまり阿弥陀如来のお目当ては誰であろう「この私」なのです。しかし私たちは、阿弥陀如来のお心どころか、私自身がこの濁った時代を作り出していること、それと同時に心の一番深いところでは常に救いを求め続けていることにすら気づきません。
本当の私を照らし出すもの、それは真実で清らかなる教えでしかありません。仏法に我が身を尋ね、仏の智慧に照らされてはじめて、私は私たりえるのです。そして、阿弥陀如来の悲しみに触れることができた時、私の計らいを超えて「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくるのでしょう。