藤岡真
少し前のことですが、妊娠途中で流産したのでお経を上げて欲しいとの依頼がありました。真宗では水子供養はしないのだが、と思いつつもお引き受けいたしました。そういえば、私には出産後間もなく亡くなった兄がいたそうで、子どもの頃その存在をはっきりと知らされていなかったが、両親がその法事を勤めるかどうかを相談していたことがありました。また、その兄が無事に成長していれば、私は生まれてこなかっただろうを言われた時には、子ども心にショックを受けたものでした。
ともあれ何かの参考になればと「誕生死」という本を読んでみました。この本は、出産前後に子どもを亡くした父母が実名を明かしてその気持ちを綴ったもので、そのあとがきには次のように書かれています。
英語では、お腹の中で亡くなったケースを”still born”と言います。日本語では単に「死産の」と訳されますが”still born”には「それでもなお生まれてきた」という深い意味があり、「死産の」という日本語では、あまりにもそぐわないと私たちは感じてきました。お腹の中で亡くなってしまった場合は、戸籍にも残らずその存在が無かったことになってしまいます。でも、私たちの子どもは、どんな短い命であろうと確かにこの世に生まれたのです。たとえ子宮という小さな世界から、生きて出てくることがなかったとしても、あるいは生まれてすぐに亡くなったとしても、私たちにとっては確かに我が子は誕生したのです。このような私たちの思いを一言で伝えられる言葉が「誕生死」なのです。
この本を読んで意外に思ったことは赤ちゃんを亡くした母親と友人との気持ちのズレが大きいことです。友人が慰めの気持ちを込めて「がんばってまだ若いんだから」とか「今回のことは忘れて、また次ぎ産めばいいじゃない」という言葉は何の力にもならない。かえって「がんばらなくてもいい、悲しい時泣きたい時には泣けばいい」と言った医師らの言葉に安らぎを感じるとのこと。母親としては、赤ちゃんのことを忘れないで欲しい。何らかの形で記憶しておいて欲しいとの思いが強いようです。たとえ生きていた時間が短かったとしても、たとえお腹の中だけの命であっても、一つの命としては何ら変わらないということでしょう。
さて、約束の日がきて読経の後には、この本の紹介をするだけにし、安易な慰めの言葉でかえって相手を傷つけることにないように努めました。杓子定規に水子供養はしないのだと単に申し出を断るのではなく、何故そのような申し出をされるのかを考え直してみることも大切であると教えられたことです。